ルイ=フェルディナン・セリーヌ 『夜の果てへの旅』

 ジャン=ポール・サルトルがその小説『嘔吐』の扉に、「彼は社会的に重要な人間ではない。正真正銘の一個人である」という、セリーヌの戯曲『教会』の一節を引用しているのはあまりにも有名だ。「もし、ユダヤ人が存在しなければ、反ユダヤ主義は、ユダヤ人を作り出さずにはおかないだろう」と指弾し、徹底的に批判したサルトルが、自身の代表作の一つと目される実験的=実存主義小説の冒頭に「反ユダヤ主義作家」セリーヌの詩句を引用していること自体が運命的ですらある。

旅に出るのは、たしかに有益だ、旅は想像力を働かせる。これ以外のものはすべて失望と疲労を与えるだけだ。ぼくの旅は完全に想像のものだ。それが強みだ。
これは生から死への旅だ。ひとも、けものも、街も、自然も一切が想像のものだ。小説、つまりまったくの作り話だ。辞書もそう定義している。まちがいない。
それに第一、これはだれにだってできることだ。目を閉じさえすればよい。
すると人生の向こう側だ。
生田耕作訳)

 人生の向こう側から、「もう何も話すことのない」世界へ――主人公である医学部学生バルダミュの、リアリズムを超えた圧倒的なファンタジー=旅行譚が始まる。まずは志願兵として第一次大戦の渦中へ、戦場での体験と負傷、アフリカ奥地での冒険とアメリカ行き、そして帰国後の医師としての毎日……。エクスクラメーションマーク(!)と三点リーダ(……)を多用した、翻訳からでもその特徴が伺える独自の文体。論理性を拒否した、登場人物たちの理解されることを拒むかのような台詞回し。決して噛み合うことのない対話、ずれた対話の深い穴から覗き見える生への深い欲望と死へのおののき。「読む」ことが常に鮮烈な喜びであり、刺激であり続ける20世紀文学の極北。