山下範久 『現代帝国論』

 本書が目指しているのは、冷戦終結後の「グローバリゼーション」という大きな変化を超えて顕在化してきた「帝国」という、この謂わば“混乱した”概念の再定義化の試みである。
 とりわけ、今日の国民国家における重要な変化として指摘されているのは、「国家が統治対象をマクロではなく、ミクロに捉え始めた」ということである。こうした「ポスト国民国家の統治手法」を分析するために、本書でもマクロ(人類史レベルのパースペクティブ)とミクロ(世界の<底>が抜ける不安に怯える人間)の視点を使い分けながら、帝国化の指標としての「普遍主義」のさまざまなレベルを提示し、現実世界における処方を描こうとしている。
 
 本書の議論の出発点は、タイトルからも想像されるとおり、マイケル・ハートアントニオ・ネグリが提出した<帝国>の概念だ。「<帝国>の時代には、世界が市場や民主主義という普遍主義的イデオロギーに覆い尽くされるため、別様の世界のあり方が考えられなくなってしまう」(p.31)。こうしたネットワーク状の権力が横溢する現代においては、反権力もネットワーク状に、「マルチチュード」として現れる。そして、「外部の消失」をもたらす<帝国>の概念は「グローバリゼーション」と密接に関わっている。
 
 一方で、本書の中で繰り返し参照されているのが、1944年に発表されたカール・ポランニーの『大転換』概念である。今日、ポランニーは反グローバリズムの論客たちからこぞって引用され注目を集めているが、なかでも注目すべきタームが、『大転換』概念の確率性と構築性によって生じる不安=「ポランニー的不安」である。これは、本書の最も簡潔な定義によれば「あらゆる秩序の前提になる規範がない状態」ということになるが、この不安は現代に固有のものではなく、むしろ人類史において反復されてきたものなのではないか、というのが著者の仮説である。
 
 アンドレ・グンダー・フランクの『リオリエント』(清朝朝貢貿易システムの分析など)とイマニュエル・ウォーラーステイン『近代世界システム』を対比して論じた第3章「『近世帝国』再論」から、ネオ・ホッブズ主義(フランシス・フクヤマニーアル・ファーガソン、マイケル・イグナティエフ)、さらにウルリッヒ・ベックスラヴォイ・ジジェク(「リスク社会」)、大澤真幸(「アイロニカルな没入」)、エマニュエル・トッド『帝国以後』ら社会学者の論を援用した第2部「ポランニー的不安にどう向き合うか――三つの普遍主義」に至る論考は、現代社会学の成果の一例をコンパクトにまとめたものとして、とても読み応えがあった(特にE・トッドの近代化過程における家族構造の類型の紹介等)。
 
 人類史には、<世界>の複数性が相対的に後景化する時期と前景化する時期がある、と著者はいう。現代は、その<世界>の複数性の可視化が臨界点に達しつつあり、それに伴ってポランニー的不安の亢進も臨界に達しつつある。それは、「世界が(再)<帝国>化する局面」(p.213)に他ならない。
 こうして、第3部「帝国の倫理」では、再度<帝国>と3つの普遍主義(ネオ・ホッブズ主義、シニシズム=ネガティブな普遍主義、新しいラス・カサス主義=メタ普遍主義)との関係を整理し、自然(ピュシス)と社会(ノモス)の緊張関係、すなわち「前提の揺らぎ」まで言及する。言うまでもなく、ここでも「ポランニー的不安」の問題が再浮上するのである。
 
 ポジティブな普遍主義もネガティブな普遍主義も「そこから書かれる処方箋が自己目的的になった時に激しい暴力性を帯びる」(p.262)。それに対して、メタ普遍主義は「さまざまな規範の前提となる構造が絶えず進化すること(ポランニー的不安)から関心をそらさない」。だからこそ、それは一つの「倫理的態度」を要請する。それにしても、「自己と他者とのあいだで共有されているであろう規範」とはいったい何なのか。「世界の底は絶えず張り替えられてはいるが、抜けてしまうことはない」という確信に至る理路が今ひとつ掴みかねた。