J-P サルトル 『自由への道 第一部 分別ざかり』

 海老坂武・澤田直訳、岩波文庫初のサルトルは『自由への道』第1巻が刊行された。21世紀になって、新しい訳でサルトルを読むことになるとは思わなかった。というよりも、『嘔吐』や『奇妙な戦争』、『想像力の問題』はばらばらに見つかったが、ぐちゃぐちゃに詰め込まれたぼくの部屋の壁一面の本棚の中から『自由への道』第1巻を見つけ出すことはできなかった。おそらくは『シチュアシオン』の何冊かと一緒に、その一冊は埋まっているはずなのだが。
 
 ぼくがその第一部『分別ざかり』を初めて読んだのは、大学1〜2年、80年代初頭の頃だと思うけれど、思想界では構造主義大学生協の書棚の大部分を席巻しており、サルトルはバルトやメルロ=ポンティなんかに隠れて、すでに時代遅れの感を呈していた。世界はついに、「文学とは何か」を問う風土を失っており、「文学とは何かを問うあなたは何者か」とか、「何かを文学と名指すことは可能か」といった、思考の地滑り的パラダイムの転換のようなものがあちこちで巻き起こっていたようなのだ。
 
 
 こうした中、21世紀を迎え、再びサルトルの時代がやってきた。しかしそれは「縮小的再現」か? 誰がどのように問おうとも、『分別さかり』とは畢竟“時代遅れの”マチウとマルセルが演じる、いくぶん滑稽な「実存劇」であり、しかし「いや、これはそうではないのだ」と拒絶するところから、あるいは「これはそうではなかったのだ」と何重もの否定を繰り返すところから、新たな物語の読みが可能となるのかもしれない。