「松竹ヌーベルバーグ」の旗手 墜つ

愛とタブーに切り込む 大島渚さん (www.asahi.com 2013年01月16日)
 
 15日亡くなった大島渚さんは、松竹に入ってすぐ、小津安二郎監督ら巨匠の泰然とした作風に反旗を翻した。同世代の吉田喜重さんらと現実社会に切り込み、ラジカルな作品群を生む。以来、時代の先頭を走り、世間に派手な話題を提供するカリスマであり続けた。
 
 松竹を退社するきっかけも語りぐさになっている。1960年、学生運動を総括した「日本の夜と霧」の上映打ち切りに強く反発。直後に開かれた小山明子さんとの結婚式では、出席者から抗議が相次ぎ、さながら総決起集会と化した。
 
 激しい性描写を含む「愛のコリーダ」(76年)はズタズタにカットされて公開された。脚本などが警察に摘発され、長期にわたる裁判となったが、家永三郎さんや、いいだももさんら幅広い文化人の支援を得て、無罪を勝ち取った。
 
 83年には「戦場のメリークリスマス」でカンヌ国際映画祭に殴り込んだ。圧倒的に本命視され、おそろいのシャツを着た関係者が会場を練り歩くなどのパフォーマンスも他を寄せ付けなかったが、最高賞は「楢山節考」にさらわれた。
 
 「絞死刑」「儀式」などを始め、一貫して国家と個人の関係に向き合った。テレビドキュメンタリー「忘れられた皇軍」など、映画の枠を超える活動も展開。反体制としての言論活動も積極的に繰り広げた。
 
 政治的で難解だとの印象もあったが、観客を楽しませる感覚にも優れていた。極端な長回しを見せるかと思えば、短いカットを重ねたりするなど、観客に訴える最善の方法を柔軟に模索してきた。
 
 和服姿で討論番組「朝まで生テレビ!」に出演。時に相手を「バカヤロー」と怒鳴り付けるほどの熱い論戦を繰り広げたのも、エンターテインメント感覚の発露であったに違いない。過激な発言に踏み込むことを恐れず、文化人としても特異な存在感を見せつけた。
 
 脳出血で倒れた後の99年には、車椅子で「御法度」を演出。しかし21世紀に入ってからは病床にあり、新作を撮ることはかなわなかった。
 
 3大国際映画祭では最高賞には届かなかったが、故テオ・アンゲロプロスさんら影響を受けた海外の監督は数知れない。「オオシマ死去」の報が今、世界の映画ファンを悲しませていることだろう。
 
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大島渚監督のおもな作品(カッコ内は年)
 
「愛と希望の街」(1959)
「青春残酷物語」(1960)
「日本の夜と霧」(1960)
忍者武芸帳」(1967)
「日本春歌考」(1967)
「絞死刑」(1968)
「少年」(1969)
「儀式」(1971)
愛のコリーダ」(1976)
愛の亡霊」(1978)
戦場のメリークリスマス」(1983)
マックス、モン・アムール」(1986)
「御法度」(1999)