「しんにゅう」の点を巡る「謎」

「しんにゅう」の点を巡る「謎」 京大・阿辻教授が講演 (www.asahi.com 2012年2月10日16時58分)
 
 京都大学が東京・品川の「京大東京オフィス」で開く連続講座「東京で学ぶ 京大の知」(朝日新聞社後援)のシリーズ6「中国学研究最前線」が始まった。初回の2月1日は、中国から日本に伝来した漢字がテーマ。国の常用漢字表の改定にもあたっている京都大学大学院人間・環境学研究科の阿辻哲次教授が「電子時代の漢字研究」と題して、時代による漢字の変遷を紹介した。
 
●しんにゅうの点はいくつ?
 
 この日の講座を貫く「材料」として、阿辻教授が取り上げたのは、部首の「しんにゅう」(「しんにょう」ともいう)だ。スクリーンに映し出したのは、「邁進(まいしん)」「巡邏(じゅんら)」「邂逅(かいこう)」という三つの言葉。いずれの字も部首はしんにゅうだ。ただし、よく見ると、「邁」「邏」「邂」「逅」は、しんにゅうの点が二つだが、「進」「巡」のしんにゅうは点が一つ。阿辻教授は「この“点の数の違い”こそ、漢字の移り変わりを示す手がかりです」と語った。
 
 しんにゅうの由来を尋ねて、話題は紀元前3千年にさかのぼった。
 
 阿辻教授は、書道の辞典から集めた様々な時代の「逆」という字をスクリーンに映し出した。甲骨文字を使っていた古代中国・殷の「逆」は、人間が逆立ちしているよう。漢の時代のしんにゅうは、形は現在と似てくるが、点の数は二つだったり三つだったりまちまちだ。唐の時代も点はゼロ、一つ、二つ、とばらつきがある。
 
 なぜ、これほど多種多様なのか。阿辻教授の答えは「しんにゅうの点の数は、実は決まっていないから」と意表を突くものだった。
 
●清の時代の字典がスタンダード
 
 阿辻教授によると、中国では歴史上、何度か漢字の形を整理する動きがあった。漢字の成り立ちをもとに部首を整理した、後漢時代の「説文解字(せつもんかいじ)」がその先駆け。この書物では、しんにゅうは7画の「辵」と書いている。
 
 その後、官僚任用試験の「科挙」で、一つの問題が生じた。答案によって漢字の字体が異なっては、正しく採点できないというのだ。そこで唐の時代の8世紀に、標準字形を提示した「干禄字書(かんろくじしょ)」が作られた。さらに清朝の時代の18世紀、漢字字典の集大成「康熙字典(こうきじてん)」が編集された。この康熙字典は「第2次世界大戦が終わるまで、中国でも日本でも朝鮮半島でも、漢字のスタンダード」(阿辻教授)だった。この字書では「しんにゅう」の点は二つ。従って、「点二つが正しい」ことになった。
 
●戦後の国語政策で揺らぎ始める
 
 日本で漢字が揺らぎ始めたのは終戦直後だった。
 阿辻教授によると、連合国軍総司令部GHQ)の指導の下、日本で「漢字は廃止か、少なくとも制限するべきだ」との議論が起きた。そんな状況で、公文書で使える漢字の範囲を示したのが1946年の「当用漢字表」だ。さらに49年、正しい活字製作の指針である「当用漢字字体表」(いわゆる当用漢字)が定められた。
 
 当用漢字には1850字が収録された。簡略化の方針に沿い、部首のしんにゅうは、すべて点一つになった。このとき、当用漢字以外の文字のしんにゅうは、点二つのまま放って置かれた。こうして、二重構造が生まれたというのである。
 
 時は過ぎて1981年。当用漢字に95字を新たに加え、日常的な使用の目安である「常用漢字表」(いわゆる常用漢字)が定められた。追加された中に「逝」「遮」の二つの文字があった。本来は点二つのはずだが、「常用漢字への『出世』にあわせて、点一つにそろえた」(阿辻教授)のだという。
 
●コンピューターの普及で新たな問題が…
 
 点の数をめぐる騒動は、まだ終わらない。「コンピューターの普及」という想定外の問題が起こったのだ。
 
 阿辻教授は「1979年に、初めて市販のワープロが登場した時、値段は630万円だった。それから約30年で、誰もがパソコンや携帯電話で文章を書く時代が来るとは、我々も、文部省(現在は文部科学省)も夢想だにしませんでした」と強調した。
 
 現在、パソコンや携帯電話の漢字は、工業規格品として一文字ずつに「コード」が付いている。「JIS漢字コード」だ。使用頻度によって、「第1水準」「第2水準」に分かれている。常用漢字を含む第1水準の漢字は、しんにゅうが点一つ、常用外がメーンの第2水準の漢字は、点二つ。「邁進」の場合、「邁」が第2水準、「進」は第1水準なので、しんにゅうの点の数が異なっているのだ。
 
 2004年にJIS漢字の改定があり、一部の常用外の漢字については、点二つに戻すことになった。しかし、せっかく点二つに戻した漢字のいくつかが、2010年に新たに常用漢字になってしまった。「謎」の字が、まさにそうだ。
 
 常用漢字改定の議論に参加した阿辻教授は、「常用漢字に『出世』したのを機に、しんにゅうの点は一つにするべきだ、という意見もありました。しかしそうすると、今度はコンピューターの表記と食い違いが出てしまうのです」と悩ましそうに話した。
 
 結局「謎」は、点二つのまま常用漢字になった。「コンピューターの都合を漢字が追認せざるをえなくなったのです」と阿辻教授。講座をこうしめくくった。
 
 「漢字は、何千年という歴史の中で、さまざまな形で書かれてきた。しんにゅうは、『点一つでも、点二つでも構わない』と教えるべきではないでしょうか」
 
 さまざまな「逆」の字を見ていると、納得できる見解だった。
 
 受講者から、「阿辻先生の辻は、点一つでしょうか、点二つでしょうか」と質問が出た。名刺では点二つの阿辻教授だが、「どちらでも良いですよ」と笑顔で答えていた。