東浩紀・編 『日本的想像力の未来』

 リアル・ポリティクスから切断された「ゼロ年代批評」の不毛にある種の不快感、苛立たしさを感じないではいられないのは、その提示する批評性が「現実にまったく言及しない異様な何か」だからなのかもしれない。インマチュア(未成熟)やクイア的主体、コクーニングがもたらす解放、セカイ系/バトルロワイヤル系の対立、「潜在性の思考」の対比としての「自己言及の思考」……。
 
 フーコーは「主体はシステムの産出物だというあなたの言葉もシステムの産出物なのか」と問われ、イエスと答えています。「それではあなたは何をしていることになるのか」という問いに、フーコーは影踏み的イメージを回答します。影を踏もうとすると影はむこうに遠ざかる、影は永久に踏めないが、影を踏もうという営みが一つの航跡を描くのだ、と。 (p.113、宮台真司
 
 ポストモダン批判が社会システム理論の立場から言えば「完全にナンセンス」(p.194)なものであるとすれば、その社会システム理論の「政治性」は、果たして何を指差し得るのか。「日本的『想像力』の未来」という書名を、「日本的『国家』の未来」に読み替えた時に、その哲学的言説の未成熟さと無力さに改めて愕然とさせられる。
 
 本書p.208「『なぜ、日本のポピュラーカルチャーがここまでポピュラーになったのか』。理由はただ一つ。それは、現実の差異を、自己から無関連化する機能があるからです」(宮台、強調=引用者)という一節を読むに至って、さすがに巻を閉じることにした。