絲山秋子 『逃亡くそたわけ』

 8月の初旬、福岡への出張が決まった時、koma2さんが「旅の参考に」と貸してくれたものの、予算その他の都合で旅行を断念することになり(予定では熊本から高千穂に入り、磨崖仏方面に抜けるはずだった)、そのまま借りっぱなしになっていた。従って、本書を手に取ってから読み始めるのに2か月近くもかかってしまったが、いったんページを開くと、息をつかせぬ面白さに数時間で読めてしまった。
 
「『人間の精神は言語によって規定される』って、知らない? 俺は自分の精神を名古屋弁に規定されたくないんだ」
「なんそれ」
ウィトゲンシュタイン以降の常識だよ」
「誰ねそれ」
「最後の哲学者とも言われててさ、哲学イコール言語ゲームっていう説をたてたんだ。君もそれくらい知ってた方がいいよ」
(p.54)
 
 もちろんこの話の半分(「哲学イコール言語ゲーム」)は事実で、残りの半分(いわゆる「サピア=ウォーフの仮説」)は虚構である。本作における語り口の中では、こうしたあっけらかんとした事実と虚構とが「あざなえる縄」のごとく入り乱れており、独特の文学世界をつくりあげている。
 
「嘘みゃー」
「みゃーとか言わないでよ。まじでさ」
(p.54-55)
 
 「逃げれば逃げるほど追いつめられる」「ねえなごやん、悲しかね、頭のおかしかちうことは」など紋切型の決め台詞、あるいは二人で「ラベンダーを探しに行く」設定など、一見すると通俗な「少女小説」のように読めなくもない(その意味で、本作の映画化に当たって「21歳の夏」などという陳腐な副題がついてしまった瑕疵も分からなくはない)。
 しかし、典型的なロード・ムーヴィーのような体裁を取りながらも、最後の最後に作者が見せてくれる優しげな「どんでん返し」によって、読み手である私たちを緩やかな回復の道へと誘ってくれる。いつまでも心に残りそうな、素晴らしく味わいのよい小説だ。
 
 
※ちなみに、巻末の解説では誰か文芸評論家(?)がマルクス資本論と掛けて本書の分析を試みていたようだが(「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」)、あれはまさに文芸評論の「悪趣味なパロディ」だったのだろうか?
 
 
 ところで、舞台となった九州の「自然」を本物の映像で見たくなって、映画版のDVDを借りる(監督:本橋圭太)。劇場で観たわけではないので一方的な批判は避けたいが、原作では「生き物のように」描かれていた九州の魅力について、もう少しダイナミックな絵が撮れたのではないか?
 中盤のクライマックスとなる阿蘇のシーンなんかあっさりし過ぎ。花ちゃんの「脳みその中」のAとかBとかC…自体の芝居もいささかファンタジーに偏りすぎだし、原作にはない大型トラックも(スピルバーグの「激突!」と比較しては何だが)まるで怖くない。何より「幻聴」の声は、少なくともあれではないだろう。大杉漣の衣装もまるでマッドサイエンティストみたいで、空回りしている。
 主役の花ちゃんも、冒頭からきっちりメイクされていて清潔感があり、まずはそこに強い違和感を覚えた。しかし、美波、吉沢悠ともに芝居は秀逸。結末部の演出のせいで、映画版は原作とはまったく異なる作品に仕上がってしまったが、そのラスト5秒の2人の芝居のためだけにでも、このDVDを観る価値は十二分にあると思った。
逃亡くそたわけ 21歳の夏 [DVD]

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