内田樹 『現代人の祈り 呪いと祝い』

 「呪いと言祝ぎ」というテーマについて、内田樹は今年1月にエッセー集『邪悪なものの鎮め方』を上梓しており、お馴染みの内容をホスト役・釈徹宗のもと、内田との対談、あるいは精神科医名越康文との鼎談で解きほぐすという構成となっている(釈と名越の対談『お坊さんと精神科医による人間分析』も収録)。
 
 話題の橋下知事(的手法)をサカナに、われわれが今や深々と「呪いの時代」に踏み込んでいる、と語るその口調はいささかあざといとはいえ、面白い。
 
 個人の顔というのは、その人固有のものであり、代替不能のものであり、さらに言えばその当の顔以外の記号によっては表象不能なものです。レヴィナスが「顔」(visage)という概念に託したのは、この「還元不可能性」のことだと僕は思っています。顔というのはその意味でほんらい唯一無二の、絶対的にユニークなものであって、一般性からもっとも遠い。
 だから、人間が自分の個別性を離れて、一般性の次元でふるまおうとしたときには、論理的に言えば、仮面をかぶる他ない。仮面をかぶらない限り、一般的な立場というのは取れない、一般論というのは語れないんです。
(p.24)
 
 ほかには、第三章で栄西法然親鸞、一遍、日蓮道元など中世日本の僧侶(中世宗教的人格の巨人たち)をめぐって、その「肖像画」からあれこれと妄想を膨らます部分もユニークで面白かった。ただ、本書で残念なのは欄外の注釈の「センスのなさ」で、あれは本当にどうにかならなかったのだろうか。