村上春樹 『1Q84 BOOK 3』

 起承転結の規則からいうと、「BOOK 3」は1Q84ワールドの“大団円”につなぐための重要なブリッジを構成しているように見える。
 かつて、ある評論家は村上春樹について、「彼は『国民的作家』になるタイプではない」と正しく評したが、物語世界の前衛を指向する本書が、およそ「生きている猫/死んだ猫」といった、手垢のついたコペンハーゲン解釈的な並行宇宙論に安住したまま、凡庸な結末を迎えるとはとても思えないのだ。
 
看板の虎は左側の横顔をこちらに向けている。しかし彼女が記憶している虎は、たしか右側の横顔を世界に向けていた。虎の姿は反転している。 (p.591)
 
「右は右で、左は左だ。何も変えなくていい」 (p.599)
 
 「BOOK 1」「2」で頑なに守られてきた青豆/天吾の対称的な物語世界は、牛河の侵入により「3」で破れ、その結末部では左/右の世界観の破綻すら示唆されている。「ふかえり」「教団」「空気さなぎ」「リトル・ピープル」らの謎解きは先延ばしされたまま、600ページに及ぶストーリーの動線は意表をつくまでに静謐でストイックだが、“豆の木”を伝って「虎の横顔の反転した」巨人の世界に降り立った2人と「小さなもの」にとって、真のカタストロフィーに至るための伏線は十分に張られているし、いまわれわれの到達した地平が甘美なまでの幸福感に包まれている分だけ、多くの読者の予想を絶望的に裏切るような「BOOK 4」(あるいは「BOOK 5」)が遠からずわれわれの目の前に姿を現すことになるかもしれない。
 
 「絶望の世紀」に生きる読者の一人としては、果てしなく救いがたい世界の崩壊の淵源から、それでも希望を失わない微かな「光」を仰ぎ見るような物語に出会いたい。村上春樹は、それだけの力量を十二分に備えた小説家なのだから。