明日香の要塞

蘇我入鹿邸の城柵か 飛鳥時代の柱穴の列発見 奈良 (www.asahi.com 2010年3月21日11時36分)
 
 大化改新のきっかけとなったクーデター「乙巳の変」(645年)で倒された蘇我入鹿の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡で、谷の斜面から7世紀の飛鳥時代の柱穴の列が見つかった。奈良文化財研究所が18日発表した。日本書紀に記された蘇我邸の城柵の可能性がある。
 同遺跡では2006〜08年度の調査で、約50メートル西側から延長34メートルの石垣や、倉庫跡などが出土。蘇我邸の敷地が広範囲に及び、要塞化していた様子がうかがえるという。
 
 奈文研が05年度から甘樫丘(標高148メートル)東側の谷で続けている調査で、昨年12月から約850平方メートルを調べた。柱穴列は谷の中腹の急斜面で2列見つかった。南側には一辺70センチの四角形の柱穴(深さ50センチ)3個と直径25センチの円形の柱穴10個が、同じ等高線上に約11メートル並んでいた。3メートル北側では一辺70センチ〜1メートルの四角形の柱穴(同)が3個並んでいた。
 柱穴の大きさや深さから、比較的しっかりした構造物とみられ、奈文研は「さくというより塀のようなものではないか。より上部にあった施設と区画するために造られた可能性が高い」という。
 
 日本書紀によると、644年に蘇我蝦夷、入鹿父子が甘樫丘に家を並べ建て、兵庫(つわものぐら、武器庫)や城柵を造ったという。これまでの調査では、邸宅にふさわしい大規模な建物跡は出ていない。
 
 猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は「石垣や塀は蘇我氏が権威を高めるために造ったのではないか。これまで谷で出土したものは邸宅の一部で、中心となる建物はより北側にあるのかもしれない」と話している。