仲正昌樹 『〈宗教化〉する現代思想』

 著者自身の言葉で言えば、「プラトン以降の西欧の哲学・思想史において、“すぐれた哲学・思想”と思われているものが、どのような形で疑似宗教(形而上学)化の危険と隣り合わせにあり、そのことが哲学者・思想家自身によってどのように問題化され、論じられてきたか、特に現代思想に強い影響を与えているハイデガーハンナ・アーレントデリダなどを参照しながら概観」(p.27)することを試みた本である。
 
 西欧近代哲学の歴史は、「哲学的思考の中に残存する宗教的・神話的世界観の遺物としての『形而上学』を除去しようとする闘いの歴史」(p.39)であった。にもかかわらず、「何人も自分の生きている“世界”の在り方について考える限り、『形而上学』から逃れることはできない」(p.231)。「どれだけ論理的に見える体系でも、その論理の出発点には、必ず証明不可能な形而上学的な前提が含まれている」(p.235)からだ。
 「自分の代わりにソクラテスに語らせている」プラトンも、カントやヘーゲルマルクスニーチェも含め、偉大な哲学者はほとんど全て「相対主義者」であると語る著者は、デリダの有名なキーワード「差延」の定義「どんな完全そうに見える体系でも、それがエクリチュールとして展開されていく内に、それを構成している基本概念がそのもともとの意味からズレていき、不可避的に矛盾が拡散・拡大する」を紹介し、(偉大な哲学者・思想家の)「そうした悩みゆえの揺らぎがエクリチュールに反映されるからこそ、後代の人間がそこからそれぞれ全く異なるタイプの解釈を引き出し、読み直して、『古典』化していくのである」(p.241)と説明する。
 
 プラトンの『国家』に登場する「洞窟の比喩」と、ハイデガーによる「現存在」のまなざしが開示する諸事物の「存在の明るみ=アレテイア」の問題。キリスト教プラトン主義(もしくは西欧哲学)、あるいは進歩史観と終末史観の驚くべき「相似」。唯物史観の疑似宗教性。ヒュームの懐疑と「ポストモダン」(人間の行動を最終的に規定しているのは、「理性」ではなく「情念」である。…自己自身の利益を増進し、相手との間で「共感」が生じるような振る舞いを、各人の「情念」が志向するようになり、それに伴って「善い振る舞い」が社会的にパターン化されてくる)。フーコーの「司牧権力」、デリダの「音声中心主義」…など、コンパクトにまとめられた思想史のテキストとしても読める。最終部、形而上学との基本的な付き合い方として挙げられたデリダマルクスの亡霊たち』の「残余の襲来」が面白い。