島田裕巳 『金融恐慌とユダヤ・イスラム教』

 東西冷戦の終結により、「政治」に代わって「経済」と「宗教」の重要性が増し、その動向に世界的な注目が集まるようになったと宗教学者島田裕巳は指摘する。イスラム教地域の国々が寡占するオイルマネーによる国際的発言力は言うまでもなく、「グローバル化の進展も、国民国家に代わる結集軸として宗教の役割をより重要なものにするのに貢献」(p.15)しているというのだ。
 
 その経済世界の中で、この10年間に象徴的な「事件」が二つ起こった。一つは2001年9月11日の「同時多発テロ」で、世界の経済を動かす金融機関が数多く事務所を構える“バベルの塔世界貿易センタービルがテロリストにより破壊されてしまったこと。そしてもう一つは、サブプライムローン問題をきっかけに、リーマン・ブラザーズの経営破綻、そして08年8月29日のNYダウ平均株価暴落という形で噴出した「世界金融危機」だ。
 06年1月まで5期にわたってFRB議長職を務めた「金融の神様」アラン・グリーンスパンアメリカ下院の監視・政府改革委員会の公聴会に召還され、アメリカは「100年に一度の津波」に見舞われていると証言した。08年のノーベル経済学賞を受賞したポール・クルーグマンも、大規模な財政出動や金融緩和の必要性を繰り返し訴えるなど、いわば「パニック状態に陥って」いる。
 それらは確かに衝撃的な「事件」には違いなかったが、それにしてもなぜ、アメリカ人はあれほどまでに「冷静さ」を失わなければならなかったのか。それは、キリスト教圏の人々の精神にユダヤキリスト教の「終末論」が色濃く影を落としており、深刻な危機が到来したときには、それを終末論的に解釈する心理的な枠組みが形成されているからだ、というのが島田の展開する主張の大筋である。
 
 一神教になじみのない日本人にとって、この終末論的なものの見方は理解しにくい。例えば、映画「タイタニック」を「ノアの箱船」のメタファーとして見た時に、その物語が一般に喧伝されるような「愛の物語」などではなく、「自己保身に走る醜い人間の姿を徹底して描いた作品」(p.59)であることが腑に落ちるかどうか、という感覚の問題であるようにも思われる。
 共和党の支持基盤として、アメリカ中西部に広がる福音派キリスト教右派)の復興が指摘される。もちろん、アメリカにおいても大都市部では世俗化が進行してはいるものの、欧米社会に生きている限り、個人の内面にあって、社会的にも共有されてきたユダヤキリスト教の神観念からまったく自由でいることは困難であり、「経済の領域に関してもまた、その影響を免れられない」(p.65)のだという。
 
 本書では、「経済の世界における市場原理主義と宗教の世界における原理主義の台頭は、同時代的な現象」(p.115)であるという仮説に沿って論が進められる。2つの原理主義の勃興と崩壊の過程は「神の死と再生」を現しており、21世紀初頭、00年代において「神は死んだ」が、事態が大きく変われば「神は全能の力を持つ存在としてふたたび世界を支配するようになるかもしれない」という。
 さらに、マルクス主義ではことさら科学性が強調されるが、それには「マルクス主義の本質がユダヤキリスト教的な背景をもっていることを隠蔽しようとする意図」(p.129)が働いていたとも述べ、「資本」という概念における宗教的な背景にまで敷衍して説明する。それは、あたかもDNAが生命に対して「利己的な遺伝子」として振る舞うように、「資本家は資本に突き動かされて経済活動を実践する」という、一種神秘的な理解の仕方に現れている。このあたりの説明は、『ヘーゲル法哲学批判序論』における有名な一節、「宗教は民衆の阿片である」という従来のマルクス理解を転倒させた“ユニークな発見”と言えるかもしれない。ケインズ経済学は、こうしたユダヤキリスト教的呪縛から逃れた唯一の経済理論であるように見えたが、近代経済学新古典派総合のようにうまく住み分けをはかりつつ延命し、新保守主義の登場によって全面的な復活をとげることになる。だが、金融危機は、市場に神の見えざる手が働いていないことを証明した。私たちは「神の見えざる手の神学としての経済学から解き放たれていく必要がある」(p.172)のである。
 
 このほか、現在の西欧型資本主義の問題点をあぶり出すために、非ユダヤキリスト教圏の動向として「イスラム金融の宗教的背景」(ex.無利子のイスラム金融=「アッラーは、商売を許し、利息を禁じておられる」コーラン2章275節)を考察し、「日本における『神なき資本主義』の形成」を論じている。閉塞状態にある今日の世界経済の淵源を一神教による「宗教支配」に求め、その臨界点と突破口を模索するユニークな一冊。