坂井克之 『脳科学の真実』

 ――現時点においては脳科学の知見のみで、人間の思考や行動の全てを説明できるには至っていない。(中略)例えば、「右脳人間、左脳人間」「男性脳、女性脳」「睡眠学習」等の多くは科学的根拠に乏しく、最近では「神経神話(Neuromyth)」と呼ばれ注意喚起がなされている。脳のある部位は特定の精神的能力や行動傾向に対応するという単純な素人理解は、研究者たちの意図に反して生物学的決定論へと傾いていき、結果として犯罪者や精神障害者の差別・排斥等の重大な人権侵害が生じる可能性がある。 (文部科学省 科学技術・学術審議会 脳科学委員会第一次答申案「脳科学研究と社会との調和について」より)
 
 脳科学者の茂木健一郎が、東京国税局に3億数千万円の申告漏れを指摘されたことがニュースとなった。彼をして、確定申告の処理すらままならぬほど多忙を極めさせる、世を挙げての「脳科学ブーム」とは、いったい何なのだろう。
 
 手足が麻痺した患者の脳波を計算して、コンピューター画面上のカーソルの動きに変換する――。ブレイン・マシン・インターフェイスBMI)技術の進展やロボットの遠隔操作技術などのニュースに接すると、脳科学領域の偉大さに思わず息を呑んでしまう。
 人間を対象とした認知神経科学研究を、大衆レベルで爆発的に浸透させる引き金となったのが、1990年代に開発されたfMRI(functional MRI)技術だ。実際、21世紀は「脳科学の世紀」(その後すぐに「ゲノムの世紀」に取って代わられてしまったが)と持て囃されたほど、脳と心をめぐるリアリティーのある研究が世界中で巻き起こり、その一部はマーケット理論(ニューロマーケティング)や大統領選挙予測など、ビジネスや政策決定の領域にまで応用されるに至っているという。では、ついに人類は脳科学というアプローチを通じて、人間の「心」のメカニズム解明に成功したのだろうか――?
 
 「数学の問題を解いているときの脳活動を測定したとしましょう。20人の被験者のうちで1人だけ、前頭葉の活動が『異常に』低下していた人がいました。でもこの人は実は数学専攻の大学院生で、この実験でテストされた問題はすべて楽々と解けていました。この場合、彼の脳活動は『異常』だと言えるでしょうか」(p.130)
 
 とりわけ「脳画像で見出される一つの脳領域の活動は、その脳領域中の何万という数の神経細胞のさまざまなパターンの活動の総和に過ぎません。心の状態によっては同じ領域の中でも異なった神経細胞が活動しているのです」(p.139)
 
 脳活動から心の働きを推測するような因果関係は「成立していない」という指摘は、ぼくら一般読者には拍子抜けするような結論かもしれない。「脳科学者」と「脳研究者」との間に横たわる深いクレバス、疑似科学としての「みのもんた脳科学」、そして、科学における「倫理」の問題。今日では「脳科学の研究者の間では全然知られていない人が、社会では著名な脳科学者と認識」(p.164)されているというが、少なくともこれからは、「右脳」を「ウノウ」と読む科学者には眉唾した方が良さそうだ。