纒向から

3世紀前半の大型建物跡、邪馬台国の中枢施設か 奈良 (www.asahi.com 2009年11月10日22時7分)
 
 邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市纒向遺跡(2世紀末〜4世紀初め)で、3世紀前半(弥生時代末〜古墳時代初め)の大型建物跡1棟が見つかった。市教委が10日発表した。同時期の建物としては、国内最大の面積で、邪馬台国の女王・卑弥呼が君臨した時期にあたり、専門家は「邪馬台国の中枢施設の可能性がある」と指摘している。畿内説と九州説が対立する邪馬台国の所在地論争に影響を与える発見となる。
 
 市教委によると、周辺で以前に発掘された3棟とともに中心軸が東西の同一線上に並ぶなど例のない計画的な配置が施されていた。
 大型建物は南北19.2メートル、東西12.4メートル、床面積は約238平方メートルと推定している。柱穴13個(直径32〜38センチ)を確認。その間には、一回り小さい柱穴9個(直径23〜25センチ)もあった。南北の柱間(約4.8メートル)を支える束柱だったとしている。東西の柱間(約3.1メートル)にはなかった。
 出土した柱穴群の西側は6世紀に造られた溝で削られていた。しかし、見つかった柱穴の形や並び方から見て、削られた部分にも同様の柱列があったと判断した。
 
 また、大型建物跡の西側では、すでに3世紀前半の小中規模の建物跡3棟が見つかっていた。大型建物跡と同じ方位を向き、中軸線も東西の同一直線上に並んでいた。周囲からは総延長40メートル以上の柵列も出ており、大型建物跡など東側の3棟は柵内に区画されていたとみられる。計画的に配列された建物群は、飛鳥時代の宮殿や寺では一般化するが、今回は最古の例という。
 
 大型建物跡の一部は、方形周溝墓とみられるL字形の溝で壊されていた。溝から3世紀中ごろの土器が出土したため、大型建物の時期は3世紀前半と判断した。纒向遺跡中心部の全体像を探るため、9月から約390平方メートルで調査を進めていた。これまでの調査面積は、遺跡全体の約5%にすぎず、今後の調査によって、さらに東側などに建物などが確認される可能性も期待されている。
 
 3世紀後半までの大型建物跡としては、吉野ケ里遺跡(佐賀県)の高床式建物跡(2世紀、約156平方メートル)や、樽味四反地(たるみしたんじ)遺跡(松山市)の掘っ立て柱建物跡(3世紀後半、約162平方メートル)などがある。
 邪馬台国は、3世紀末の中国・三国時代史書魏志倭人伝」に記載されている。宮殿や物見櫓、城柵があったと記されているが、纒向遺跡ではこれまで大型建物跡が出土しておらず、畿内説の「弱点」とされてきた。