J・G・バラード 『終着の浜辺』

 アメリカ航空宇宙局NASA)が、人類を宇宙船で月に送り込む「アポロ計画」を発表したのは1960年7月のこと。翌61年4月12日には、ユーリ・ガガーリンを乗せたソ連の宇宙飛行船ボストーク1号が、人類史上で初めて「有人宇宙飛行」を成功させる。そして8年後の69年7月20日に、今度は米国の宇宙飛行士ニール・アームストロング船長らが、アポロ11号で初の月面着陸に成功するまで、米ソは熾烈な宇宙開発競争を繰り広げてきた。
 
 一方、53年のスターリン死後、ソ連では56年にフルシチョフによる「スターリン批判」が巻き起こり、個人崇拝、独裁政治、高度管理社会の恐怖に世界中が戦慄した。さらに62年には、原水爆による世界全面戦争と人類滅亡の危機を予感させた「キューバ危機」が勃発している。そして、J・G・バラードの短編集『終着の浜辺』が書かれたのは、まさにそうした20世紀最大の「危機の時代」の最中のことなのである。
 
 世界が果たして「終末」に向かっているのか、回避可能なのか、誰にも予測がつかない暗黒の時代にあって、文学はその「最先端」を露わに描き出す。バラードは、それをSFの手法によって成し遂げた。しかし、その作品群が21世紀の私たちの心を魅了するのは、テキストに現れた縦横無尽の想像力――処刑の時をめぐって駆け引きが繰り返される「ゲームの終わり」、サブリミナル効果によって支配される恐怖を描いた「識閾下の人間像」、“神の視線”を手にした男の悲劇を描いた「ゴダード氏最後の世界」など――の鮮やかさばかりではない。むしろ、限界状況における人間心理を精緻に描く、その手法に惹かれるのかもしれない。
 
 「あなたはまだ、なぜここにやってきたのか説明していませんよ」(「ヴィーナスの狩人」p.192)
 
 バーノン山天文台に勤める34歳のアンドルー・ワード博士は、元心理学者であり、現在は反アポロ計画主義者として奇妙な啓蒙活動に務める喫茶店の給仕、チャールズ・カンディンスキーからの緊急電話を受け、国際地球物理学会の年次総会の大事な席を抜け出す。彼はなぜ、よりにもよって「それ」を見に行かなければならないと決意したのか? 「ヴィーナスの狩人」のこの悲劇は、パウロの回心の「不可能な」エピソードを、現代に敷衍しているのだろうか?
 
 ほかに、第一次大戦以降には日本が委任統治領として占領し、戦後は1948年から62年までは米国の核実験が行われたエニウェトック環礁を舞台に、プレ・サード(第三次大戦前期)時代における静謐かつグロテスクな黙示を詩的構成のもと描ききった表題作「終着の浜辺」など。