竹田青嗣 『ニーチェ入門』

 人間はその欲望の本性(生への意志)によってさまざまな苦しみを作り出す存在だが、それにもかかわらずこの欲望以外には人間の生の理由はありえない(p.42)という「ディオニュソス的」生の是認。「キリスト教の人間観の本質は『ニヒリズム』にほかならない。その理由は、キリスト教の思想がその根本に『ルサンチマン』の本性を隠し持つことによる。(略)近代的な思惟がキリスト教の欠陥をそのまま受け継いだことによって、ヨーロッパに非常に根の深い『ニヒリズム』の諸形態(無神論懐疑主義相対主義デカダンなど)が顕在化しはじめている」(p.78)。このヨーロッパのニヒリズム、この現代精神の徴候は、キリスト教の理想の反対物ではなく、「むしろその必然的な帰結」(p.96)であると強調する。「神が死んだ」からニヒリズムが到来したのではない。「神学的世界像の代わりに登場した、哲学や科学という近代的思惟そのものの中にニヒリズム的本質が存在するのである」(p.122)。
 
 では、いったいニーチェは、このニヒリズム克服のためにどのようなアプローチを試みるか。それが「超人」と「永遠回帰」の思想である。
 
 ニーチェの「階序」の思想が濃厚に現れている『権力への意志』は、同書を編集した妹エリザベートによる「ナチズム権力への迎合的な意図」(p.137。妹エリザベートの夫ベルンハルト・フェルスターは反ユダヤ主義扇動家で知られる。そのため、ニーチェはこの義弟を嫌悪していた)により、とりわけ解釈が難しい。「永遠回帰」の思想がなぜルサンチマン克服(新しい「価値創造」=p.169)につながるのかという「ニーチェ哲学最大のアポリア」に関しても、本書の説明だけで腑に落ちることはなかった。
 
 それでも、「『事実』それ自体なるものは存在しない。ただ『解釈』が、多数かつ無数の『解釈』だけが存在する」というニーチェの徹底的認識論、「何かを信じざるを得ない人間の根底的な本質」という「力」の思想など、ニーチェ哲学のフレームを概観するには格好の入門テキストだと言える(ただし参考文献などの例示がなく、ニーチェのテキスト以外の言及はドゥルーズ、および僅かにソシュール「言語の恣意性」、ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム」程度にとどまってはいるが)。