ドストエフスキー 『罪と罰』

 亀山郁夫の新訳で数十年ぶりに読み返す。
 
 ドストエフスキーを初めて読んだのは14歳の時で、タイトルは原久一郎訳の『カラマーゾフの兄弟』(新潮文庫、旧版)だった。登場人物の強烈な個性、人間存在の根源的な善と悪、魂や宗教の問題を深くえぐり、多層的な読みに無限に開かれた巨大な作品に目を見開かされ、以来、ドストエフスキーの5大長編小説は今日までに、何度となく読み返し、楽しんできた。
 もちろん、何度繙いてみたところで、その作品群が表している巨大な世界観を理解したとはとても思えないが、やはり10代〜20代当時に心酔していた作家、大江健三郎が「自分は何年かおきごとにフォークナー、ドストエフスキー(それにディケンズ)の長編を読み返している、その経験が作家としての血肉になっている」旨の発言をしていたことに励まされ、数年おきに、ドストエフスキーをまとめて読む、という習慣を長らく続けていたことを思い出す。
 
 ただ、個人的にはこれまで、『罪と罰』はそのテーマ(選民思想、ナポレオン主義)の深刻さにもかかわらず、物語展開の強引さ(ラスコーリニコフの陰画としてのスヴィドリガイロフの運命や、エピローグにおける主人公の精神的転回など)に素直に同化することができず、『悪霊』や『白痴』ほど熱中できなかったことも確かだ。
 
 こうした中、今回第3巻が刊行され、完結を見た亀山訳の『罪と罰』は、前作の『カラマーゾフ』同様、新しい日本語で甦ったドストエフスキーを十二分に楽しむことができた。
 
 日本の読者に考慮し、登場人物の表記をほぼ統一するなどの配慮は、確かに賛否が分かれるところかもしれない。しかし、第1部で主人公が「あのこと」を本当に実行するのかどうか迷いながら意図せずセンナヤ広場に足を運び、金貸し老婆の妹・リザヴェータと商人夫婦が商売の話をしているシーンでは、亀山訳でしか味わえない新解釈による翻訳を体験することができる。このシーンを読んで、改めて『罪と罰』に仕組まれたドストエフスキーの物語装置の底深さ、「悪魔的」ともいえる凄みに改めて慄然とさせられた。各巻に収められた読書ガイドも、簡潔だが豊かな示唆に満ちている。