松浦寿輝 『あやめ 鰈 ひかがみ』

 ここには、今からそう遠い過去でもないある年の暮れの東京で、一夜のうちに起こった三つの出来事が語られている。年齢も境遇もばらばらの三人の男がある不思議な「幸福」感に到達するまでを描いた、三つの物語と言ってもよい。
 「あやめ」と「鰈」と「ひかがみ」はそれぞれ別々の話だが、必ずしも相互にまったく無関係というわけでもない。(略)この三つの円環(ボロメオの環)は、どの一つを切断してもその瞬間に三つ全部がいきなりほどけてばらばらになってしまうのだ。
(『あとがき』より)
 
 
 「世界から滑り落ちかけその縁にかろうじて引っかかってもがいている」三人の男たち。秋葉原を起点に上野広小路、竹町へ(『あやめ』)、あるいは築地の魚市場から山手線で恵比寿まで迷い出て日比谷線へ(『鰈』)、さらには外神田の鳥獣店から神田明神へ(『ひかがみ』)と、東京という「この化け物の身体の奈落の底に淀む無意識の汚泥」を彷徨い歩く。
 
 濃厚な「死」の予感に纏われながら、「いっそう闇の濃い方へ、深い方へとわざわざ選ぶように」生きていかざるを得ない滑稽な「生」。何が描かれている訳でもないにも拘わらず、それ故にこそ破綻した物語だけが持つ言いようのない表象の裂け目から、「死」と「生」の円環を逸脱した赤裸なエロティシズムが露出し、読む者を掴んで離さない。