村上龍 『無趣味のすすめ』

 月刊『GOETHE』に連載された記事を纏めたエッセー集。書名と同じタイトルの記事に始まって、エッセー「盆栽を始めるとき」に終わる構成に、村上龍一流のアイロニーを感じる。判型、紙質、組版にセンスを感じさせる一冊。


「真の達成感や充実感は、多大なコストとリスクと危機感を伴った作業の中にあり、常に失意や絶望と隣り合わせに存在している」(「無趣味のすすめ」)
 
「小規模で孤独な環境から出発し、多数派に加入する誘惑を断固として拒絶すること、それがヴェンチャーの原則である」(「少数派という原則」)
 
「いまだ達成されていない目標は、他人に語ることで意志が『拡散』する。目標は自らの中に封印されていなければならない。だから目標を持つことは基本的に憂うつなことなのである」(「夢と目標」)
 
「集中するためにはリラックスが必要であり、かつ自覚的でなければならない」(「集中と緊張とリラックス」)
 
 およそ20代半ば〜30代前半の読者を想定しているのだろう。「情報や知識やネットワークへの飢えを持ちつつ、少数派の立場を常に維持」(p.15)せよというメッセージが全体を貫いている。「大胆な経営改革に臨む経営者に必要な情報は、ジャック・ウェルチの指南書ではなく『論語』にあった、というようなエピソードをよく聞く。…自分は今どんな情報に飢えているのか、それが分かれば目標は八割方達成されたも同然だろう」(「「ビジネスと読書」)
 
 本エッセーには、著者が小説『半島を出よ』を執筆する際に感じた「困難な感覚」と、それに「立ち向かう意志」についての独白も散見される。
 『半島を出よ』は確かに面白い小説ではある (主要な役割を果たすはずだった登場人物の何人か―内閣情報管理室や内閣危機管理センターの構成メンバーたちなど―については、人物像の造形が確立されることなく脱稿されるなど、物語構成上の明らかな破綻が認められるものの) が、『希望の国エクソダス』などとも併せ、村上龍の小説には、他の現代日本文学の作品群と比べ、突出した限界点ともいえる特徴が感じられる。それは、物語を紡ぐ意志以上に、作者があまりにも「情報」を信奉しすぎているということだ。
 その、テキストを超えた「過剰さ」が、ときに物語を平板なものにし、小説世界の限界を際立たせているように思えてならない。読者は小説にリアルな経済情報や外交情報、武器・火器・昆虫類のディテールの表出を求めているわけではないのだから。
 さらに加えるなら、作家は決して「教条的」になってはならない。このエッセー集が、村上龍の「現代日本を代表する天才作家」としての最終的な限界を示すメルクマールにならないことを祈りたい。