寺山修司 『ポケットに名言を』

 言葉を友人に持ちたいと思うことがある。
 それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと言うことに気がついたときにである。

 
 このような台詞は、寺山修司の本の中だけで出会いたい。
 
 「少年時代、私はボクサーになりたいと思っていた。しかし、ジャック・ロンドンの小説を読み、減量の死の苦しみと『食うべきか、勝つべきか』の二者択一を迫られたとき、、食うべきだ、と思った。Hungry Youngmen は Angry Youngmenにはなれないと知ったのである」
 
 寺山は、映画館の中から、詩集の中から、小説や聖書や哲学書の中から、ヤクザのスラングや自分自身の作品の中から「名言」を取り出し、ぼくらに見せてくれる。まるでポケットの中から、少しだけ埃のついたキャンディーを取りだしてみせるように。その引用元の作家や作品は、今では時代遅れになっていたり、すっかり忘れ去られてしまった芸術家のものも多い。いや、恐らくは寺山修司という現象それ自体が、すでに時代遅れなのだ。いまや、若者たちは誰一人として寺山修司を読まない。それどころか、いまの日本には「若者」という言葉さえ死語に等しいではないか。
 
 人生は何物にも値しない。――だが人生に値する何物も存しない。 (アンドレ・マルロオ「征服者」)
 
 けれども、今どき、こんな「台詞」をありがたがって読む人間など、いったいどこにいるというのだろう。
 
 じゃ、これが地獄なのか。こうだとは思わなかった……二人ともおぼえているだろう。硫黄の匂い、火あぶり台、焼き網なんか要るものか。地獄とは他人のことだ。 (サルトル「出口なし」)
 
 しっ、静かに。君のそばを葬式の行列が通り過ぎていく。 (ロートレアモン「マルドロールの歌」)
 
 部屋代が
 天国に送れるのなら、いいのにな。
 (ラングストン・ヒューズ「小さな、しかし、重要な叙情詩」)
 
 憂鬱は凪いだ熱情に他ならない。 (アンドレ・ジイド「地上の糧」)
 
 あれほど多くの苦しみにさいなまれながら、それでもなおかれの顔が幸福であるように見えるのはどういうわけだろう。 (アルベール・カミュ「手帖」)
 
 最後に、寺山修司の詩集から――あまりにも有名な一節。
 
 一本の樹のなかにも流れている血がある
 樹のなかでは
 血は立ったまま眠っている