リービ英雄 『越境の声』

 陸のボーダーのない島国には、しかし違った意味の境がある。国境のない国、だからこそか、その国の作家たちが次々とことばの境と、表現のボーダーを見つけて、越えようとしてきた。島国の都市の、日当りの悪い部屋で、世界の「中心」の言語になったことが一度もないことばによって、かれらは百年間、非西洋語の、しかしまぎれもなくもう一つの近代文学を創り上げた。 (プロローグ)
 
1. 文学はどこへ向かうか (富岡幸一郎沼野充義との鼎談)
「(中上健次は)日本語そのものの自明性を突き崩す、自分と母語の自明な関係をもう一回異化していく」 (富岡)
 
「三島は母語のマイスター的なところを考えていたし、安部公房はそれに対してクレオール的なというか、外部の言語としての日本語みたいなものを意識していた。この二人がお互いにわかり合いながら対峙していた時代が、戦後文学のピークとしてはあったような気がします」 (富岡)
 
三島由紀夫が亡くなる前に書いた『日本文学小史』というのが非常におもしろい。万葉集から始まって古今和歌集ぐらいまで書いていて、大変鋭い、この作家独特の切り口なんです。日本語が完熟したのは古今和歌集だ、和歌ではこのとき、日本語がまさに真昼の状態にきた、あとは衰えていく、物語でいえば源氏物語が真昼である、そうすると近代文学はまさに夕刻の状態である」 (富岡)
「ぼくは、進化論は全然信じていない。(略)こういう越境の話をするときに、ぼくは必ず万葉集の中の山上憶良を引き合いに出すんです。憶良は遣唐使の無事の帰朝を祈る長歌のなかで日本のことを『言霊の幸はふ国大和』と言うのですが、これは島国と大陸を意識したうえで日本の特徴を言葉にもとめたわけです。つまり、言葉を意識すること自体は昔からあった。そうした『越境』は古代からあったもので、けっして現代だけのテーマではないんです」 (リービ)
 
2. 越境の声
「あなたというものがわたしを見ている、だから、わたしはわたしがいることがわかるという、そういうコンセプトがありますよね。わたしがあの本( „Nur da wo du bist da ist nichts“ 『あなたのいるところだけなにもない』)を書いたのは、あなたというものの目を通してわたしというものを実感しなければならないような、そういう自分というものから解放される必要があるのではないかと思ったからです」 (多和田葉子
 
「日本語というものが、国籍オリエンテッドであるよりも、人種オリエンテッドな言葉だということです。そしてその事実はリービさんのようにまったくちがう顔かたちの人が日本語を書くということによって初めてはっきりと見えてくる」 (水村美苗
 
「文学というのは、テキストに内在する価値にすべてを賭けるということだから。それを書いている作者がどんな人間であるかは関係ない。本質的には、生きていようと、死んでいようと関係ない。だから文学においては、ガイジンなのにこんなに書けたということはない」 (水村)
 
「(金谷武洋『日本語には主語はいらない』を読んで)そもそもラテン語は動詞の語尾変化で主語を表しますよね。英語でも人称代名詞が頻繁に出てくるのは、12世紀ぐらいかららしい。だから西洋の言葉自体が変わってきていて、動詞の語尾変化に対応する人称代名詞が出てくることから逆に『I』と言う概念が生まれたんじゃないか。しかも、そういう概念が生まれたこと自体、言語分布の中で、わりあいと特殊な事情だったんじゃないか」 (水村)
 
「大衆が本の市場を左右すれば当然起こることが日本でもちゃんと起こっている。同じ文学と名がついても大衆が読む本と一部の人間が読む本とが二分化されるということですね。ただ、それが自覚されていない、というよりも、そのことを自覚することに抵抗があるんです」 (水村)
 
「今の日本では、かつての軍国主義に通じる危険も意識されている。大正デモクラシーのあとの民衆像のなかで、それ以前のたとえば夏目漱石には見られないような単一的な日本文化観がつくられたが、それがもう一回生まれてこないかと危険視されている。これは、ぼくが若いとき愛読していた万葉集源氏物語が、戦前から戦時中にかけてどういうふうに読まれていたかという問題とも関連がある」 (リービ)
 
「1949年に中華人民共和国が成立してから76年に文化大革命が終わるまでの約30年間、たしかに大量の文学作品が書かれつづけていたわけですけれども、そこには厳密な意味での文学作品と呼べるようなものはほとんどなかったと言わざるをえない。(略)80年代に入ってから、カフカ、フォークナーであるとか、ラテンアメリカの作品だとか、あるいは日本の川端というようなものが大量に入ってくるようになったわけです。それらを読んだときに、最初は眩しいというか、めまいがするような感覚でしたけれど、同時に、文学にはこういうものもあったのかと、目を見開かされる思いも非常に大きかった。(略)ただ、どんなに物真似に腐心しても、結局は二流の域を出ることはできない」 (莫言
 
「ガルシア=マルケスのコロンビアの町や、日本だと大江健三郎の四国の森あるいは中上健次の被差別地区の路地といった、きわめてローカルだけど、歴史を含めて外部と通じていて、世界が交差する小さな共同体があったと思います。そしてその共同体から一つの世界のモデルが見えてくる。(略)ところがその後、ガルシア=マルケスが世界文学の最先端のモデルになってから20数年たって、もう一つの流れが出てきた。それは基本的に二つ以上の共同体、あるいは二つ以上の言語を一人の作家が抱えるということ。代表しているのは、サルマン・ラシュディ――インドとイギリス。あるいはV・S・ナイポール」 (リービ)
 
「(学生時代にピエール・ガスカル『けものたち・死者の時』の原書を読んで)フランス語のページから新しい言語の森が、ぼくの前に出現したんです。フランス語という平面に交わる垂直面のようにして、新しい日本語の森が立ち上がってきた。たとえば「宏大な共生感」と渡辺(一夫)さんが訳されているところ、cette immense communion。communionはていねいに辞書を引くとたしかに一体感、共感とも出ているけれど、この句を「宏大な共生感」と訳すまでの、すごい精神の働き! このようにして、渡辺一夫の翻訳に導かれて、またそこから超えて、フランス語の世界から自分が日本語で開拓することができる未開地が目の前に拡がっていると感じたわけです」 (大江健三郎
 
「周縁にいる人間として中心に対して常に批評的であることが、エグザイルというものの役割だと彼(エドワード・E・サイード)は考えていた。そこから言えば、世界でもっとも永く周縁にあって批評的な役割をつづけてきたのがユダヤ人の知識人。そこで彼は『私は最後のユダヤ的インテレクチュアルである』と、テル・アビブで出ている新聞のインタビューでしゃべったんです」 (大江)
 
ムスリム系中国人とユダヤ系中国人が同じ土地(開封)にいて、モスクがあり、シナゴーグがあって、じつは800年ぐらいずっとその状態がつづいていた。ところが1949年を機にユダヤ系の人たちが『帰国しました』(略)それを知って、ぼくは正直言ってちょっとゾッとしたんですね。アイデンティティーって何なのか」 (リービ)
 
ムスリムの人たちとユダヤ人たちとが共同の場所で、同じ生活空間を共有して幸福に暮らしていた時代が、いくつかの国にあるということです。たとえばスペイン。(略)サイードバレンボイムは『ウエスト・イースト・ディヴァン』オーケストラをつくった」 (大江)
 
3. <9・11>、日本語として
『スーザンが残したことば』
“Let’s by all means grieve together. But let’s not be stupid together.”  スーザン・ソンタグエドワード・サイード 
 
『<9・11>と文学』
「陸のボーダーのない島国である日本の中には、見えないボーダーが実はたくさんある」――ぼくたちの時代の最高の小説家の一人、中上健次は和歌山の新宮という被差別地区(路地)での体験によって大きな日本文学の一つを書いた
 
「ときには機長というものは悪いニュースを伝えなければならない」
 
エズラ・パウンドと「俳句」  imagism
 
「今、日本人が『千々にくだけて』という言葉を聞くと<9・11>を連想する、いや、してしまう。誰も芭蕉の言葉とは思わない。だから、大丈夫だ」
 
4. 越境の跡
『千年紀城市に向かって――中国人になったユダヤ人を探す旅』
河南省 開封  かぎりなく遠く離れた外部からやってきて東アジアの内部で生きたという幻の越境者
「第四人民医院」裏の古い建物 病院のボイラー室  「幾何学的な模様を描いた井戸のふたがうっすらと見えた。それはシナゴーグの井戸だった」