審理の「狭間」で――60年間語られなかったこと

日本人元弁護人「東京裁判判決文に関与」 61年に証言 (www.asahi.com 2009年2月22日3時2分)
 
 第2次世界大戦後、日本の戦争指導者らをさばいた極東国際軍事裁判東京裁判)で、A級戦犯の日本人弁護団の一人が「判決文の作成に携わった」と、1961年に法務省の聞き取り調査に答えていたことが分かった。国立公文書館が聴取書を所蔵していた。具体的な内容は明かしていないが、連合国判事が言い渡した判決文をめぐって被告側の関与が明らかになるのは初めてだ。
 
 この弁護人は、東京帝国大教授だった高柳賢三氏。鈴木貞一・元企画院総裁(終身刑)の弁護を主に担当した。東京裁判の基本的な枠組みとなった英米法の第一人者で、被告らが問われた「平和に対する罪」などは戦勝国が後から作ったもので、国際法上認められていないと反論。弁護団の理論的支柱となった。
 
 聞き取り調査は、61年5月にあった。法務省は当時、裁判資料の収集を兼ねて、仮釈放された被告本人や弁護人らをインタビューしていた。
 高柳氏は、B4判7枚ほどの聴取書の中で、弁護方針などを説明した後に「また私は、連合国が判決文を作成するに当って、その法律面および事実面について点検をして貰いたいと頼まれてそれをやった」と述べている。
 異例の行いとは自覚していたようで「元来弁護人が判決の作成に携ることはあり得ないことで、不可ないことであるが、私が判事連にも検事連にもよく連絡していたため、こんな依頼を受けたものと思う」と振り返っている。
 
 48年11月に言い渡された判決は、豪、仏、オランダ、インドの4人が手続きや量刑などに異論を唱え、連合国11人の判事のうち、7人によって書かれた。内容は最高機密で、翻訳に携わった日本人たちは東京都内の邸宅に約3カ月にわたって缶詰めにされた。
 高柳氏は、どの部分の作成に携わったのか、いつ誰に頼まれたのかなどは明らかにしておらず、指摘がどう反映されたのかも分かっていない。
 高柳氏が法廷で主に指摘した国際法上の問題点は判決では退けられ、被告全員が有罪となっている。