T・S・エリオット 『文芸批評論』

作家がものを書く場合には、自分の世代が自分の骨髄の中にあるというだけでなく、ホーマー以来のヨーロッパ文学全体とその中にある自分の国の文学全体が同時に存在し、同時的な秩序をつくっているということを強く感じさせるのである。この歴史的意識は一時的なものに対する意識であり、永続的なものに対する意識であり、また一時的なものと永続的なものとをいっしょに意識するもので、そのために作家が伝統的になれるのだ。またこの歴史的意識によって作家は時代の中にある自分の位置、自分の現代性をきわめて鋭敏に感じることができるのである。
 
詩人がもっているのは表現すべき「個性」ではなく、特殊な媒体――これは媒体というだけで個性ではない――で、その媒体によって印象と経験とが特別な思いがけないしかたで結合するからである。
 
芸術の情緒は非個性的である。詩人は自分が行なう芸術の制作に自己をすっかりまかせきらなければ、この非個性に到達することができない。そうして詩人は現在ばかりでなく過去の現在的瞬間というものの中に生きるのでなければ、また死んだものでなく前から生きているものを意識するのでなければ、自分は何をすればよいかわからないだろう。 (『伝統と個人の才能』より)
 
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(倫理的なことがらと神学的なことがらとの)意見の一致が欠けている現代のような時代には、キリスト教を信じる読者たちが明確な倫理的、神学的規準をもってその読みもの、特に想像力でつくった作品をいっそう検討しなければならない。文学の「偉大さ」は文学的規準だけでは決定されない、ただ文学であるかどうかということが文学的規準で決定されるだけである。
 
聖書は文学ではなく、神の言葉の記録と考えられたからこそイギリス文学に文学的影響を与えてきたのである。いま文学者たちが聖書を「文学」として論じているということは、聖書の「文学的」影響の終末を示すことになるだろう。
 
よい批評家――皆が批評家になるように努めなければならない、批評を新聞の書評屋にまかせておいてはいけないのだ――とは鋭い、持続性のある感受性と、識別力を増していく広い読書的知識とをあわせ持つ人である。読書範囲が広いことも、一種のため込みとか知識の積み重ねとか時々ひとが使う「もの知り」とかいう意味では、価値がない。次ぎ次ぎに力強い個性から影響を受ける途上で、どれか一つまたは少数の個性だけに支配されなくなるから、価値があるのだ。たがいにたいへんちがった人生観がいくつかわれわれの心の中に同居して、たがいに影響しあっている、われわれ自身の個性は自己を主張してめいめい独特な配置のしかたでそれぞれの人生観に位置を与えるのである。 (『宗教と文学』より)