水村美苗 『日本語が亡びるとき』

 9月のアイオワ・シティ――米国IWP(International Writing Program)に参加する女流作家。12歳で父親の仕事で家族とともにニューヨークに渡り、アメリカと英語になじめないまま、20年間もアメリカに居続ける。作家たちとの国際交流……IWPに参加することは、老親の介護に疲れ、自らも重い自律神経失調症に苦しむ作家にとって「転地療養」になるかも知れないと、出発を決心する。
 
 地球のありとあらゆるところで人は書いている。<自分たちの言葉>で。――作家は、壁の向こうのその「熱気」を熱く感じながらも、それゆえにこそ、<自分たちの言葉>で書いているすべての人間にとって、今、歴史が大きく動いていることの意味を考えざるを得ない。
 英語が<普遍語>となりつつあることの意味を。
 
 作家は、一つの「ロゴス=言葉=論理」が暴政をふるう世界のまがまがしさについて、アメリカ中西部アイオワ大学の安っぽいホテルで、あるいはパリのシンポジウムの席で、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』を軸に、思いをめぐらす。そして、さまざまな<国語>で学問をするというのは、ほんとうに可能なことであろうか? それは、学問の本質に反することではないか? ――という新たな問いの措定にたどり着く。
 
──言葉というものは、いかに翻訳可能性を目指そうと、閉じたシステムの中で意味を生産するものであるがゆえ、翻訳不可能性を必然的に内在するものである。 (p.151)
 
 近代日本への転換を象徴する福澤諭吉。「かれは明治維新なるものがくるかどうかも知らないまま」ひたすら傍若無人に西欧語を勉強する。あるいは西周箕作麟祥中江兆民坪内逍遙──その他数え切れない「二重言語者による翻訳を通じて」「日本の言葉は、世界と同時性を持って、世界と同じことを考えられる言葉へ」変身していった。ここから、日本近代文学の奇跡が始まる。
 
 そもそも、小説とはいったい何か?
 『三四郎』は、実は<大学>を舞台にすることによって、日本で<学問>をする困難をあますことなく描いた小説である。別の言い方をすれば、『三四郎』は、「西欧の衝撃」を受けた当時の日本の<現実>を、まさに<学問>の言葉を使わず、<文学>の言葉を使うことによって、どんな<学問>にも代えがたく理解させてくれる小説なのである。
(略) 
 「日本より頭の中の方が広いでせう」
 日本より「広い」頭の中――それを、可能にするものが、<普遍語>を翻訳するうちに成立した<国語>での思考である。 (p.210)
 
 日本語でいう意味の「近代文学」は、日本近代文学の規範となった英文学やフランス文学には存在しない。(略)「西洋の衝撃」は、非西洋に文学の断絶――究極的には、文化の喪失そのものを強いる。 (p.221)
 
 「優れた文学の第一条件は言葉そのものに向かうことにある」。しかし、こうして得られた「新しい日本語が当たり前なものになるのと同時に、日本近代文学の起源――それが、大学で西欧語を学んだ二重言語者によって、翻訳という行為を通じ、翻訳の不可能性と不可能性のアポリアから創られていったものであることは急速に忘れられて」いく。日本近代文学は、世界の読書人にとって「主要な文学」として知られるようになりながら、「亡びる」道をひたすら辿りつつあったのだという。
 
 そして作家はついに「文学の終わり」について言及する。その歴史的根拠――科学の急速な進歩、<文化商品>の多様化、大衆消費社会の実現。しかし、ほんとうの問題は「英語の世紀に入ったこと」にあるという。学問にたずさわる二重言語者が、<普遍語>で書き、<読まれるべき言葉>の連鎖に入る可能性が出てきてしまった今、漱石ほどの人物がわざわざ日本語で小説を書こうとするか? それ以前に、今、日本語で書かれている小説を読もうなどと思うだろうか?
 
 この「亡び」の道を歩み始めた日本語を救うために、作家は学校教育をこそ考え直すべきという「凡庸きわまりない」提言を行う。そのためには国語教育ではなく、なによりもまず英語教育を。しかし、「国民総バイリンガル社会」を目指すのではなく、国策として「少数の<選ばれた人>」を育てるほかはない。その代わりに、大多数の日本人は日本語ができるようになるべきである。――<普遍語>である英語の「脅威」を前にした、何という逆説!
 そして、イェール大学大学院博士課程在籍中にはアメリカにおける脱構築批評の旗手であったポール・ド・マンに師事し、また柄谷行人の講義にも出席した経歴のある水村美苗は、「表音主義」と漢字排除論の問題に切り込んでいく。
 
――かうして幾多の先学の血の滲むやうな苦心努力によつて守られて来た正統表記が、戦後倉皇の間、人々の関心が衣食のことにかかづらひ、他を顧みる余裕のない隙に乗じて、慌しく覆されてしまつた、まことに取返しのつかぬ痛恨事である。しかも一方では相も変らず伝統だの文化だのといふお題目を並べ立てる、その依つて立つべき「言葉」を蔑ろにしておきながら、何が伝統、何が文化であらう。なるほど、戦に敗れるといふのはかういふことだつたのか。 (p.299、福田恆存 『私の国語教室』からの引用部分)
 
 「伝統的かなづかい」が「表音式かなづかい」にほとんど改められてしまったという事実。それを福田恆存のような人がかくまでも嘆くのは、その改悪の根底にある「表音主義」というものが、究極的には、文化そのものの否定につながるからである。
(略)
 ジャック・デリダは「音声中心主義」を一つのイデオロギーと見て、そこから西洋形而上学批判を展開した。「音声中心主義」においては、<書き言葉>は<話し言葉>より非本質的なものとされ、さらに<話し言葉>自体も、それを発する<主体の意識>より非本質的なものとされる。すなわち、言語に先行して存在する<主体>というものが特権化される。 (p.301)
 
 「表音主義」の西洋からの輸入は、最終的には文化そのものを否定するイデオロギーへとつながった。しかし、「日本語という特異な<書き言葉>をもつ私たち日本人こそ、世界に向かい、まさに誰よりも声を大にして、『表音主義』を批判すべきだったのである (p.305)」。
 
 みたび、くり返すが、日本の国語教育は日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべきである。 (p.319)
 
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 一章「アイオワの青い空の下で」、二章「パリでの話」の圧倒的な面白さに比べ、三章以下は「水村らしさ」が姿を消し、文芸・文化批評としてはいささか平板かつ凡庸な感が否めない。むしろ、水村ほどの力量ならば、これを<読まれるべき言葉>によって、「文学」として、あるいは「メタ文学」として、紡ぎあげることもできたのではなかっただろうか。そんな折も折、「三色ボールペン斎藤孝が、あの福澤諭吉『学問のすゝめ』現代語訳を上梓した。そう、現代人にとっては当然のことながら、もはや福澤諭吉ですら、原文で読むことは適わないのである。