F・スコット・フィッツジェラルド 『ベンジャミン・バトン』

――彼の才能は蝶の羽根の鱗粉が綾なす模様のように自然だった。ある時期まで、彼は蝶と同じようにそのことを理解しておらず、模様が払い落とされたり、損なわれたりしても、気づかなかった。のちに彼は傷ついた羽とその構造を意識し、深く考えるようになったが、もはや飛翔への愛が失われていたが故に、飛ぶことはできなかった。残されたのは、いともたやすく飛ぶことができた頃の思い出だけだった。
 
――もし彼が『グレート・ギャツビー』のような傑作を書けるのなら、それを上まわる作品だって書けるにちがいない。そのとき、私はまだ彼の妻のゼルダのことを知らなかった。だから、彼の前にはどんなに恐ろしいハンデが横たわっているか、知る由もなかったのである。が、われわれはほどなくそれを知ることになるのだった。

アーネスト・ヘミングウェイ 『移動祝祭日』
 

 「格差世代」とも呼ばれ、団塊ジュニアによる「ミリオン入試」で大学受験に苦しみ、卒業後はバブル崩壊による「超」就職氷河期正規雇用の門戸から閉め出された「ロスジェネ(=ロスト・ジェネレーション)世代」が何かと話題だ。その「失われた世代」の本家中の本家、アーネスト・ヘミングウェイの『移動祝祭日』(改訳)が最近、新潮文庫から刊行されたので、ずいぶん久しぶりに読み返してみると、畏友、フィッツジェラルドに寄せた若き日の一文がそこにあった。

  
 今日、そのF・スコット・フィッツジェラルド原作の映画『ベンジャミン・バトン』(デヴィッド・フィンチャー監督)が本邦でも封切られる。第81回アカデミー賞では作品賞をはじめ、13部門にノミネートされたという話題作だ。フィッツジェラルドといえば、村上春樹訳でも知られる『グレート・ギャツビー』(天才の作品)をはじめ、代表作『夜はやさし』、あるいは未完『ラスト・タイクーン』のイメージが強い。もちろん彼の個性的な短編集も何冊か翻訳されてはおり、そのうちの何作かは読んだこともあるけれど、本作『ベンジャミン・バトル』の存在はこれまで全く知らなかった(解説によると、欧米では広く知られた作品だという)。
 
 ストーリーは映画予告編のムーヴィーですっかり有名になった。「老人」として生まれ、年を経るごとに若返りの人生を歩む主人公の数奇な生涯という筋立てはいかにも「文明批評」的なコンセプトで、およそフィッツジェラルドらしからぬ(アーヴィング的? フィリップ・ロス的?)印象を受けたが、実際に小説を読んでみて驚いた。このわずか50ページ足らずの原作の中に、「女性」(産みの母親、あるいは人生の転換期に出現する恋人)という“存在”が、肉体を備えたリアルな登場人物としては、全景に一度も立ち現れないのだ(とりわけ主人公の誕生時の描写では、一貫した「母親の不在」に誰しも強い違和感を覚えざるを得ない)。
 
 おそらくその意味で、本作「映画」版と「原作」とでは、その意図するコンセプトは対蹠的に(antipodal)異なっているのかもしれない。この作品は決して恋愛小説などではなく、息子と父、父と息子という「一神教」(反・創世記)の物語なのだ。読み始めてすぐに、物語の結末は明瞭に読めてしまうにもかかわらず、その破滅的なカタストロフに向かって淡々と筆を運ぶ「天才作家」の真骨頂。映画を観てから原作を「読み直して」みれば、その面白さはいや増すに違いない。