ジル・ドゥルーズ/フェリックス・ガタリ 『カフカ マイナー文学のために』

挙げられる顔、屋根または天井を突き破る頭は、うなだれた頭に対応するように見える。それはカフカの作品のいたるところに見出される。(p.3)
 
カフカにとって関心があるのは、意味論的に作られた、構成された音楽ではなく純粋な音のマチエールである。(p.6)
 
カフカの関心をひくものは、常におのれ自身の廃棄と関連している、強度の高い純粋な音のマチエール、非領域化した音楽的な音、意味作用・構成・歌・言葉を欠いた叫び声、まだあまりにも意味作用的な連鎖の束縛から脱するための、断絶状態の音響性である。音において重要なのは強度だけである。それは、一般的には単調で、常に無意味な強度である。(p.7)
 
作家は作家としての人間なのではなく、政治的人間であり、それは機械としての人間であり、実験的人間である。(p.10)
 
父の名前は、歴史上のもろもろの名前、ユダヤ人・チェコ人・ドイツ人・プラハ・都市=農村とコードが重なる。しかし、そこからオイディプスを拡大させればさせるほど、こういう顕微鏡での拡大は、父を本来の姿よりもくっきりとさせ、全く別の闘いが行われる場であるひとつの分子運動を彼に与える。(p.14)
 
《隠喩は、書いているときに私を絶望させる多くのもののひとつだ》と、カフカ1921年の日記に記している。カフカは、あらゆる指示作用とともに、あらゆる隠喩、あらゆる象徴表現、あらゆる意味作用を故意に抹殺する。(p.39)
 
カフカが自分のために生き、実験することは、手紙を倒錯的に、悪魔的に用いることである。(p.55)
 
罪があるのは言表の主体である。罪性そのものは、外見的でこれ見よがしの運動に過ぎず、内側での笑いを隠している。(カフカと《罪性》、カフカと《掟》などについて、これまで何と不快なことが書かれてきたことか。)→cf.p.91: カフカについての多くの解釈の中で最も不快な三つのテーマは、法の超越性、罪の内面性、言表行為の主観性である。(p.62)
 
現代的な機械状鎖列としての「訴訟」は、それ自体が、再び実在化されたアルカイックな起原にかかわる。それは、動物への変化に対してなされ、グレーゴルへの有罪判決を惹起する訴訟、悪魔の契約に関して吸血鬼に対してなされ、一種の法廷に彼が出頭するホテルでの訴訟のような、カフカが実際にフェリーツェとの最初の断絶の時に体験した訴訟である。(p.79)
 
欲求という視点から見るとき、カフカほど喜劇的で陽気な作家はいなかった。言表という視点から見るとき、彼ほど政治的で社会的な作家はいなかった。「訴訟」から始まって、すべては笑いである。フェリーツェへの手紙から始まって、すべては政治的である。(p.82)
 
政治的には、重要なことはいつでも会議場の廊下とか集会の舞台裏といった別のところで起こる。そのような場所では、人々は欲求と権力との内在的な本当の問題――《司法》の実際的な問題――に直面するのである。(p.102)
 
孤独であり独身であるために、また、逃走の線を引くことにより、この機械だけでひとつの共同体にかかわるので、それだけいっそう社会的で集団的な機械である。(p.146)
 
すべてのブロックはその背後にそのブロックの数だけの隣接した裏口を持っている。これはカフカにおいて最も驚くべき地形学であり、それは単なるひとつの《精神的な》地形学ではない。対蹠的なところにある二つの点が、奇妙に接触していることが明らかにされる。(p.151)