謎の「4世紀」

大王か、中堅豪族か 奈良・纒向遺跡に4世紀の遺構 (www.asahi.com 2013年2月2日)
 
 桜井市纒向遺跡で、中枢施設だったとみられる3世紀前半の大型建物群の近くから、4世紀中ごろの溝の遺構が姿を見せた。邪馬台国の女王、卑弥呼が没した後も、強大な権力が存在していた可能性も指摘される。「謎の4世紀」に迫れるのか。専門家は注目する。
 
 「4世紀の大きな溝があるとは予想もしなかった。『日本書紀』など文献の記述内容につながる可能性もある」。県立橿原考古学研究所の職員だった1970年代から調査に携わってきた石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)は驚きと期待を隠さない。
 
 「日本書紀」は垂仁天皇と次の景行天皇が纒向に宮殿を置いたと伝える。溝の遺構で建物跡は確認されていないが、長さ約32センチの刀形木製品が出土した。石野氏は大きな建物はなく、祭祀(さいし)が行われた広い空間だった可能性を指摘。「大王クラスの宮殿など広い施設の一角がちらり見えてきたのではないか。4世紀の宮殿を探る新しい手がかりになりうる」
 
 市纒向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は、敷地面積が3千平方メートル程度であり、地域を治める中堅クラスの首長居館とみる。
 
 過去の調査で、5世紀末〜6世紀初めの石張り溝も見つかり、上級クラスの居館があった可能性もある。「初期ヤマト王権を支えた系譜につながる重要人物が居館の主に想定される。3世紀前半、4世紀、さらに5世紀末〜6世紀初めという3時期にわたって、同じ場所に大型施設が重なって造られるのは異例」と話す。