木田元 『反哲学入門』

 彼ら(ソクラテスプラトン)は、〈叡智〉を意識的に探しもとめ、存在者の統一を可能にしているのは〈なんであるか〉を問おうとします。
 
 しかし、ハイデガーに言わせれば、存在に随順し、それと調和し、そこに包まれて生きるということと、この存在をことさらに〈それはなんであるか〉と問うこととは、まったく違ったことです。というのも、そんなふうに問うとき、すでに始原のあの調和は破れてしまい、問う者はもう始原の統一のうちに包み込まれたままでいることはできません。
 
 こうして、〈叡智〉との調和がそれへの〈欲求〉、それへの〈愛〉に変わり、〈叡智を愛すること〉が〈愛知=哲学〉に変わってしまいます。プラトンによって準備された知のこの欲求・探求がアリストテレスによって、「(存在者であるそのかぎりでの)存在者とはなにか」という問い、つまりは「存在とは何か」という問いに定式化されたのです。ハイデガーは、このプラトンアリストテレスの〈哲学〉をギリシア的思索という「偉大な始まりの終焉」と見ています。 (p.284-5)
 
 編集者に向かって語りおろしたものに手を加え、まとめたものだが、冗漫なところは微塵もなく、古代ギリシアの思想からハイデガーまで一気に読ませる思索の深みに凄みを感じる。
 第三章「哲学とキリスト教の深い関係」の濃密な記述を経て、第四章「近代哲学の展開」と第六章「ハイデガーの二十世紀」が圧巻。著者自身は後書きで「雑談というのはどうしても雑になり、四角い部屋を丸く掃くようなことになる」と語っているが、哲学とは「どのような思考なのか」、「どのような企てのもとに行われている思索なのか」という、哲学の未知なる魅力の一端を垣間見る上でも重要な一冊ではないだろうか。