大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ ―3.11後の哲学』

 われわれは、3.11の悪夢を突き抜けるような仕方で、覚醒しなくてはならない。われわれに必要なのは、夢から現実へと退避する覚醒ではなく、夢に内在し、それを突き抜ける覚醒、夢よりもさらに深い覚醒である。
 
 「夢よりも深い覚醒」とは、大澤真幸社会学の師、見田宗介の言葉であるという。「凡庸な解釈は、むしろ、真実を隠蔽する」(p.8)という覚悟から、3.11、あるいは原発問題に孕む「詩的真実」に迫る。詩的真実とは「可能性と不可能性とを弁別する座標軸、われわれの日常の生が当たり前のように受け入れてしまっている土台そのものを揺り動かす」出来事 évènement のことである。
 
 ジョルジョ・アガンベンは、ムーゼルマンを前にして、倫理的な威厳を保ったり、上品さを維持したりするとしたら、それ以上に下品で、非倫理的なことはない、と論じている。 (p.51)
 
 倫理の虚構性、信と知との乖離。原子力という「神」を存立させる「例外付きの普遍性」原理。「悔い改めよ、神の国は近づいた」という預言者ヨハネ(聖書上ではイエス)と「神の国はあなたたちの中にある」と語る革命家イエスとの対比。そして「V 階級の召命」ではマルクスによって導入された「階級概念」の現代的展開を振り出しに、剰余価値論、観念論的倒錯、言語行為論などから「プロレタリアートのラディカルな普遍化」へと著者の思索は駆け巡っていく。
 
 著者によれば、現代におけるプロレタリアートとは「社会システムの中のどの場所においても『何者か』であることができない者、どこにあっても原理的にアイデンティティの承認を受けられず、安住することができない者」、すなわち「資本主義社会の中で、何者かになることを阻まれている者たち」(p.241)であるという。ここで本書は冒頭の命題「プロレタリアートが『召命 Klasse』によって革命の主体として立ち上がる」ことの現代的な不可能性に突き当たる。著者は最終章「特異な社会契約」の中でラカンの「通り道」を援用した集合的意志決定の方法を提案している。その現実可能性は措くとして、3.11という「覚醒直後の心臓の激しい鼓動が鎮まらないうち」になされた生々しい考察の跡が本書には記されている。