橋本治 『小林秀雄の恵み』

 小林秀雄は、日本に於ける近代的知性の誕生を、「学問する知性の誕生の時」と捉えた。そのように設定した時、日本の近代=知性の始まりは、近世にまで溯る。 (p.64)
 
 《もう、終りにしたい。》で結んで、グルグル回りの円環構造にしてしまった小林秀雄の『本居宣長』をめぐる、橋本治の螺旋構造のような思考の冒険。
 
 日本の近世の思想は、「近代を生み出す」という機能を持たない。 (p.210)
 
 私は、「近代の起点が近世にまで溯ったら、近代と近世の間にある堤防は決壊して、日本の近代は水没する」と思うのだが、私にそう感じさせる小林秀雄は、そのように考えない――これが、決定的かつ根本的な違いである。 (p.358)
 
 大部は『本居宣長』の記述に沿って展開されるが、『当麻』の衝撃、徒然草西行など小林秀雄の主要テキストにも触れつつ、小林秀雄(日本人が必要とした)とは何であったのかに迫る。「もう一度ちゃんと学問をしてみようかな」という述懐も首肯できる、重く粘り強い思考の跡を感じさせる文体で、(終章のオチも含めて)とびきり面白かった。
 
 本居宣長』という本は、本居宣長を題材にして考察される「考え方の正しさ」に関する本なのである。小林秀雄にとって、本居宣長の考え方――思索の方向、思索の方法は、どこにも間違いはない。たとえ小林秀雄に「不備」と思われることがあっても、本居宣長は、決して間違えていない。なぜ彼が誤らないのかといえば、彼本居宣長が物のあはれを知っているからである。
(略)
 本居宣長は、「物のあはれを知らなければ、“考える”などということは始まらない」という前提に立ち、しかし、小林秀雄はそれを知る前から「考える」をしていて、その後に「物のあはれを知らなければ“考える”などということは始まらないのではないか?」と気づいた人である。もちろん私は、『当麻』に於ける小林秀雄の「敗北」を踏まえて言っている。 (p.505-6)