久江雅彦 『日本の国防』

 「Too Little,Too Late」「小切手外交」と揶揄された、1991年湾岸戦争時における日本の対応。135億ドルの戦費拠出、ペルシャ湾の機雷除去のため史上初となる自衛隊の海外派兵も空しく、外務官僚に「湾岸トラウマ」を刻み込む。そして翌92年、小沢一郎自民党幹事長が推進した国連平和維持活動(PKO)協力法の成立を背景に、カンボジア、そして93年のモザンビーク、94年ルワンダ、96年ゴラン高原と、一転して自衛隊の海外派遣が相次ぐことになる。そこには、国連安保理常任理事国入りを画策する外務省の目論見も見え隠れしている。
 
 この構図は2001年の米中枢同時テロとそれに伴うアフガン攻撃、03年のイラク戦争を経た今でも基本的に何ら変わっていない。「非戦闘地域」というマジックワードのもと実現した自衛隊イラク派遣。政権交代後の2010年11月には、APEC首脳会談席上で、菅直人首相が自衛隊医官・看護官のアフガン派遣を突然表明し、頓挫するという茶番を挟みつつ、今年1月15日、野田政権は独立間もない南スーダンのインフラ整備支援のため、陸自先遣隊23人を首都ジュバに送り出すに至っている。
 
 94年の「北朝鮮核危機」は、日米安保の再定義を促した。村山内閣時に防衛問題懇談会がまとめた「日本の安全保障と防衛力のあり方」(樋口レポート)を、日本が日米同盟を軽視し始めた兆候と捉えた米国防総省はただちに「東アジア戦略報告」(ナイ・レポート)をまとめる。クリントン政権下で日米同盟強化の流れは加速。95年11月には前述のナイ・レポートを踏まえた「防衛計画の大綱」が社会党の首相のもと閣議決定。96年に事実上の安保改定となる日米安保共同宣言が採択。97年には新たな日米防衛協力のための指針(新ガイドライン)、99年には周辺事態法などのガイドライン関連法成立と矢継ぎ早に手が打たれ、日米安保自衛隊は完全に生まれ変わることになる。それはミサイル防衛(MD)の導入で一つの頂点を迎えることになる。
 
 混迷を極める民主党政権下で死文化した、「世界一危険な」普天間飛行場移設に関わる日米合意。そして、今まさにある尖閣諸島周辺の危機。13億の人民を抱える中国の、資源・エネルギー確保を視野に入れた軍備増強政策の最中にあって、政治的迷走に溺れる日本は米中に対し自国のプレゼンスをどうやって訴えていくのだろうか。