今井むつみ 『ことばと思考』

 私たちは世界にあるモノや色、モノの運動などを、単に見ているわけではない。見るときに、脳では、ことばもいっしょに想起してしまうのだ。たとえそれが、一瞬のことで、意識的には気づかず、記憶に留まることがなくても、だ。つまり何かを見るとき、言語を聞こうと聞くまいと、言語は私たちの認識に無意識に侵入してくるのである。 (p.200)
 
 B・L・ウォーフは「人の思考は言語と切り離すことができないものであり、母語における言語のカテゴリーが思考のカテゴリーと一致する」と主張した(言語決定論、あるいはウォーフ仮説)。最先端の心理実験の結果によると、確かに言語は世界を「切り分ける」ように見えるし、「言語情報」は時に記憶を歪めさせる。その意味でウォーフ仮説は「正しい」ように思われる。
 しかし、モノを「持つ」状況とそれを「運ぶ」状況を指し示す動詞の区分がそれぞれ異なるドイツ語話者と中国語話者に、「モノを持ちながら人が移動している」ビデオを見せたところ、両者は同じようなカテゴリー区分を行ったという。すなわち、言語の違いが直ちに「相互理解の不可能性」を意味するわけではないということだ。
 
 こうした実験結果から、例えばスティーブン・ピンカーなどは「言語の間の違いは、その普遍的性質の前では取るに足らないことであり、従ってウォーフ仮説は真剣に検討するに値しない」と断じている。だが、これもまた短絡的な結論であると著者は注意を促す。モノや出来事を無意識に見るという行為でさえ、「言語の存在が脳の計算プロセスの一部になっている」。われわれの思考は言語のフィルターから逃れ出ることはできないのだ。
 
 「言語と思考の関係を考える場合に、もはや、単純に、異なる言語の話者の間の認識が違うか、同じかという問題意識は、不十分で、科学的な観点からは、時代遅れだといってよい」(p.214)。そうではなく、人間の日常的な認識と思考に言語がどのように関わっているのか、その仕組みを明らかにすることが重要であり、その上で「異なる言語がそれぞれの認識と思考にどのように関わるのか、その関わり方が言語の文法による構造的な特徴や語彙の特徴によってどのように異なるのか」という問題に取り組んでいくことになるだろう、と著者は語っている。