橋爪大三郎+大澤真幸 『ふしぎなキリスト教』

 最初にイエスが、ただの人間(人の子)として現れて、人間の罪を背負ってみじめに死んでしまう。そして、復活する。そのあと、天に昇った。
 天に昇ったのは、やがて再臨するため。そのときは、本格的な神の介入になる。イエス・キリストは、人間に殺されたので、人間に復讐する資格がある。人間は、どんな罰を受けても文句は言えない。でも逆に、イエス・キリストには、人間を赦す資格がある。イエス・キリストは人間として死刑になったので、罰はもう済んだと言える。どちらになるかは、イエス・キリストの裁量です。イエス・キリストが再臨する「主の日」に、最後の審判を行なう。こういう、ワンクッションを置いた。これが、キリスト教の考える、神の計画です。 (橋爪、p.190-1)

 
 一神教とは何か。なぜ、安全を保障してくれない神を信じ続けるのか。全知全能の神がつくった世界に、なぜ悪があるのか。……
 本書では、起源としての「ユダヤ教」の考察から始まって、イエス・キリストと「聖書」の謎に迫り、キリスト教がいかにして「西洋」をつくりだしていったのかを描き出していく。「なぜ、哲学の問いが、存在の問題に集中するのか。それは、人間が『神に存在させられた』から」「主権や国家の考え方はみな、神のアナロジーなんですね」など、ヨーロッパ近現代思想の本質を「キリスト教」の視線から照らし出している。
 
 

 たとえば、マルクス主義者は「貨幣物神」はけしからんと言うわけですが、それはまあ偶像崇拝の批判なんですよね、ほんとうは。もっとほんとうの神様は別のところにあるぞという論理ですから。「科学的」と言われる世界観はユダヤキリスト教を否定したというよりも、それをより徹底させたというか、ヘーゲル風に言えばアウフヘーベンしたみたいなところがあるわけです。しかし、われわれはそれを「否定した」というふうにとってしまうので、科学的世界観とユダヤキリスト教的世界観が対立しているという側面だけを見てしまう。しかし、ユダヤキリスト教的な世界観の中から出てきた合理主義というものがある、ということを押さえておかなくちゃいけないと思います。 (大澤、p.119-120)
 
 社会が近代化できるかどうかのカギは、自由に新しい法律をつくれるか、です。キリスト教社会はこれができた。 (橋爪、p.276)
 
 キリスト教徒は、理性を、宗教的な意味で再解釈したんです。(略)人間は罪深く、限界があり、神よりずっと劣っているけれど、理性だけは、神の前に出ても恥ずかしくない。数学の証明や論理の運びは、人間がやっても、神と同じステップを踏む。ゆえに、自然法を発見できる。こう位置づけるのが、キリスト教神学です。 (橋爪、p.280-1)