有馬哲夫 『原発・正力・CIA』

 1954年3月1日、原子力の負の面を示す「決定的な事件」が起こった。アメリカが南太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行ったところ、近くでマグロ漁をしていた第五福竜丸の乗組員がこの実験の死の灰を被ってしまったのだ。
 この「第五福竜丸事件」は巨大な反米世論を引き起こした。日本全国に原水爆反対平和運動が巻き起こり、3000万人を超える署名運動は駐日アメリカ大使館、極東軍司令部、合衆国情報局、CIAを震撼させたという。
 
 これら4者は「何とかこの反米運動を沈静化しようと」必死になった。日本のマスコミをコントロールし、対日外交に有利な状況を作り出す心理戦のためだが、彼らにはもう一つの狙いがあった。共産主義勢力が東アジアでこれ以上拡大するのを阻止するため、米国国防総省は日本の核配備を進め、ソ連と中国を核で威嚇しようとしていたのだ。そのために彼らが熱い視線を向けたのが「讀賣新聞日本テレビ放送網という巨大複合メディアのトップである」正力松太郎だった――。
 
 なぜ正力が原子力だったのか。正力はマイクロ波通信網を全国に張り巡らせ、テレビ、ラジオ、ファクシミリ、データ放送、警察無線、長距離無線・通信…など多量通信サービスを行おうと計画していたのだ。「ポダム」というコードネームを持つ正力の野望、CIAとの蜜月と破局。総理という最高権力の座に肉薄しながら、ついに閣外へと去っていく昭和裏面史の過程が面白い。
 
 ちなみに、正力のニューメディア構想自体は、その後1962年7月10日のAT&Tによるテルスター1号打ち上げ成功により完全に時代遅れのものとなった。翌63年11月23日、日米間で衛星を使った白黒テレビ伝送実験が行われ、日本人はケネディ大統領暗殺のニュースをリアルタイムで目撃することになる。
 しかし、何よりも息詰まるのは1961年の「原子力損害賠償法」成立だろう。「原子力の父」正力が蒔いた種は、半世紀後の日本にいったいどんな実をもたらしたのか。本書ですら予言できなかった現実が、今ここに横たわっている。