井上隆史 『三島由紀夫 幻の遺作を読む ――もう一つの「豊饒の海」』

 死後公開された創作ノートによると、三島由紀夫の遺作『豊饒の海』は当初、全五巻での筋立てが構想されており、最終巻『天人五衰』も、実際の完成作とは真逆な結末を持つプランが繰り返し構想されていたという。
 本書では、なぜ当初の構想が放棄されるに至ったのか、当時の三島が置かれていた状況や創作ノートの変遷などからその原因を分析し、本当は書かれるはずだった「幻の第四巻」を仮構するとともに、なぜ三島が自決の日として「昭和45年11月25日」を選んだのか、その謎の解明に挑んでいる。
 
 「私は小説家になつて以来考へつづけてゐた『世界解釈の小説』が書きたかつたのである
 三島は昭和44年2月26日の毎日新聞夕刊に寄稿したエッセー「『豊饒の海』について」の中で、ライフワークとなる本作品への意気込みをそう語っている。「第四巻(題未定)は、それの書かれるべき時点の事象をふんだんに取込んだ追跡小説で、『幸魂(さきみたま)』へみちびかれゆくもの」となるだろう、と読者に予言したという。
 ところが、実際に発表された第四巻『天人五衰』は、それまでに描かれてきた(本多繁邦の)救済への期待を完全に断ち切り、「記憶もなければ何もないところ」、すなわち虚無そのものであるような大破局(カタストロフィー)に襲われるところで幕を下ろす。なぜそうなったのか?
 
 その理由を説くカギは、本書の底流に流れる「唯識特有の世界解釈」である、というのが井上隆史の主張だ。三島は『豊饒の海』を起草するに当たって、宇井伯壽の『摂大乗論研究』を参照し、「文芸」昭和45年11月号掲載の武田泰淳との対談「文学は空虚か」の中で、「むずかしい。とにかく日本語で書いてあって一頁読んでも二頁読んでも何にもわからないというのは、僕ははじめてだったな」と吐露している。
 ともあれ、昭和40年以降、最晩年の三島が大谷大学の山口益や、澁澤龍彦宅でインド学研究者の松山俊太郎らと面談し、「唯識」読解にかなり本格的に打ち込んだという話はよく知られている。第三巻『暁の寺』が一般に不評を買ったのも、全編に流れる「唯識」解釈の開陳があまりに難解だったせいでもあるだろう。
 
 輪廻思想と仏教の基本的前提である「無我無霊魂説」との間には、根本的な矛盾が指摘され、仏教史のなかでは長い間議論が繰り返されてきた。それを、無記である「阿頼耶識」が輪廻転生の主体であると考えることで解消されるとするのが唯識の考え方であるという。三島は深浦正文『輪廻転生の主体』、源哲勝『業思想の現代的意義』、上田義文『仏教における業の思想』などを読み込むことで、唯識についての理解を深めていった。
 
 世界はどうあつても存在しなければならないからだ!
 しかし、なぜ?
 なぜなら、迷界としての世界が存在することによつて、はじめて悟りへの機縁が齎らされるからである。
(『暁の寺』第一部十九節)
 
 三島は「同時更互因果という考え方の中に、何よりも彼自身の文学的主題と深く関わるものを認めた」(p.115)。
 三島は昭和19年の徴兵検査の際に、風邪を引いていたのをあたかも肺結核に罹患しているかのように振る舞い、肺浸潤と誤診され即日帰郷を命じられる。このことの罪悪感は「三島の心の奥で、決して抜けることのない棘となって疼き続ける」(p.93)が、三島にとって「輪廻転生の思想とは、このような全体状況を超克し、全的破滅を乗り越えて永遠の生を獲得されるために生み出されたもの」(p.145)だったのだ。
 
 井上隆史の提示する「幻の第四巻」の筋立ては興味深いが、しかしやはり、三島にとって『豊饒の海』の結末は結局、あのような形で終わらざるを得なかったのではないか。「豊饒の海」が、月面に広がる海の一つ「Mare Foecunditatis」の意であり、「月のカラカラな嘘の海」を暗示している以上、予めこの虚無の極北たる「大破局」は意図せず決定づけられていたように思えるのだ。
 
 『仮面の告白』との絡みで、なぜ自決の日に「11月25日」が選ばれたのかという謎を解き明かした読みは鋭く、興味深い。それにしても、もし三島が最終的にあのクーデターを断念し、坊城俊民に予告したように「紅旗制戎吾が事に非ず」(『明月記』)と記した藤原定家の生涯に基づく小説を書いていたら、今日に続く日本文学史ははたしてどのように変わっていただろうか――。