マイケル・サンデル 『これからの「正義」の話をしよう』

 「1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか?」
 この難題は、現代政治を動かしている「正義」の複雑さを象徴しているようにみえる。
 「正しいことをする」とはどういうことなのか。「幸福の最大化」を至上命題とする功利主義。自由市場をよしとし、パターナリズム(温情主義)や富の再分配を拒否する自由至上主義リバタリアニズム)。「市場と倫理」のディレンマをめぐっては、「徴兵と傭兵」「代理出産契約」の是非が検討される。自由市場でわれわれが下す選択はどこまで自由なのか。金で買えない美徳やより高級なものは存在するのだろうか。
 
 本書第5章ではイマヌエル・カント『道徳形而上学原論』における「道徳の最高原理」と「自由」の問題が、第6章ではジョン・ロールズの「平等をめぐる議論」(無知のベール)が、さらに第8章ではアリストテレスの「目的論的世界観」が検討され、第9章において現代政治のアポリアの一つ、「歴史的不正に対する公的謝罪の問題」が扱われる。
 
 われわれは、(奴隷制やナチズムのような)みずから選んでいない、社会契約に帰することのできない道徳的束縛にとらわれているのだろうか? …そうした責務を、連帯あるいは成員の責務と呼ぼう。それらは契約論の用語では説明できない。自然的義務とは異なり、連帯の責務は個別的であって、普遍的ではない。そのなかにはわれわれが負う道徳的責任も含まれる。分別ある人間そのものに対する責任ではなく、ある歴史を共有する人に対する道徳的責任だ。だが、自発的責任とは異なり、そうした責務は合意という行為には基づかない。その道徳的重要性の源は、道徳的反省の位置づけられた側面であり、私の人生の物語は他者の物語と関わりがあるという認識だ。 (p.289-291)
 
 この、個別的であり、合意を必要としない「連帯の責務」に、人間は耐えられるのだろうか。
 サンデルは独立宣言、合衆国憲法リンカーンゲティスバーグでの演説、アーリントン国立墓地に祀られている戦没者の英霊などを引きながら、「愛国心からの誇りを持つためには、時代を超えたコミュニティへの帰属が必要だ」 (p.304)と説く。
 
 われわれはこれまで、人間の義務と責務はすべて意志や選択に帰することができるか、解明しようとしてきた。私は、できないと主張してきた。われわれは、選択とは無関係な理由で連帯や成員の責務を負いがちだ。そうした理由は、物語と結びついている。その物語によって、われわれは自分の人生と自分が暮らすコミュニティについて読み解く。 (p.311)
 
 自由であるということは、自分を拘束する責務はすべて自分で決めるということだという「自由の構想には欠陥がある」(p.312)。しかし、正義はどうか。
 「人間の義務と権利を定義する正義の原理は、対立し合う善良な生活の構想のすべてに中立でなければいけない」というカント、あるいは「正義について熟考するためには、特定の目的、愛着、善の構想を除外しなければならない(無知のベール)」というロールズの主張が正しいのか、それとも「善の意味について熟考せずして、正義について熟考することはできない」というアリストテレスの目的論が正しいのか。
 しかし、われわれのように「多元的社会に生きる人々は、最善の生き方について意見が一致しない」(p.313)ことは当たり前のようにも思える。
 
 サンデルは第10章において、「政治的言説を再活性化しわれわれの公民的生活を一新しようとするあらゆる試みの中心にある問い」――すなわち宗教問題について取り上げる。
 大統領史上初のカトリック教徒でありながら、「信仰は公的責任とは何の関係もない」と語ったジョン・F・ケネディと、「『個人的道徳』を公的な政策論争に持ち込むべからずと言うのは、非現実的でばかげている」と述べるバラク・オバマ。あるいは妊娠中絶やES(胚性幹細胞)研究に関する論争。こうした「道徳的・宗教的論議における立場を明確にしなくては解決できない」問題を検討しつつ、サンデルは「正義と共通善」という、本書の核心となる結論を導き出す。
 
 公正な社会は、ただ功利性を最大化したり選択の自由を保証したりするだけでは、達成できない。公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに判断し、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはいけない。 (p.335)
 
 「新たな共通善の政治」とは、果たしてどのようなものか。かつてロバート・F・ケネディは、1968年3月18日にカンザス大学で次のように演説した。
 
 GNPはアメリカのすべてをわれわれに教えるが、アメリカ人であることを誇りに思う理由だけは、教えてくれない。 (p.338)
 
 ボビーはこの演説後、3か月も経たないうちにロサンゼルスで兄と同じく暗殺されてしまった。40年後の今日、バラク・オバマも「より大きな目的のある公共の生へのアメリカ人の渇望を利用し」道徳的・精神的切望の政治をはっきりと打ち出した。いずれにせよ、本書が扱う「正義」の範疇はいささかアメリカ国内の(ドメスティックな)政治状況にとどまりすぎ、国境を越えた規模での定義上の有効性については疑問がつきまとう。
 
 この恐るべきサラダボウルのような世界の中で、「正義」の概念は果たして有効なのか? 更なる検討が待ち望まれる。