内田樹 『街場のメディア論』

 本書は、神戸女学院大学での講義科目「メディアと知」での内容をベースに(こりこりと加筆修正しながら)まとめられた一冊だ。しかし、表題から連想されるような「メディアの現状」であるとか、「メディアの未来予測」に紙幅が割かれてあるわけではない。現代は「メディアの不調」の時代であり、それはとりもなおさず「われわれの知性の不調である」ことへの危機的な批評が、平易で知性的な言葉により綴られた一冊である。
 
 その「知」の射程は、学生向けの「キャリア教育」論に始まり、メディア、「正義」、読者論、著作権問題から贈与経済へと豊かに広がっていく。次の一節などは今日の宗教論、宗教観にも結びつくものだ。
 
 「天職」というのは就職情報産業の作る適性検査で見つけるものではありません。他者に呼ばれることなんです。中教審が言うように「自己決定」するものではない。「他者に呼び寄せられること」なんです。自分が果たすべき仕事を見出すというのは本質的に受動的な経験なんです。 (p.30-31)
 
 あるいは、テレビの中でニュースキャスターが「こんなことが許されていいんでしょうか」と眉間に皺を寄せ、「では、次、スポーツです」と切り返す。内田は「その技巧されたイノセンスに僕はどうも耐えられない」と言う。
 
 僕は報道に携わる人間にとっては「こんなことが起きるなんて信じられない」というのは禁句だと思うんです。それは口にすべきではない言葉でしょう。「知らなかった」ということを気楽に口にするということは報道人としては自殺行為に等しいと思うのです。 (p.57-58)
 
 「正義」をめぐっての、昨今の医療崩壊、教育崩壊に対する著者の批判は、独自の「資本主義批判」ともなっている。前者は、ある国立大学の看護学部での実際のエピソードがもとになっているが、内田樹は、医療の現場における「患者さま」という呼称は「あきらかに医療を商取引モデルで考える人間が思いついたもの」だと指摘する。医療を商取引モデルでとらえれば、「患者さま」は「お客さま」だ。病院は医療サービスを売る「お店」ということになる。
 
 そうなると、「患者さま」は消費者的にふるまうことを義務づけられる。
 「消費者的にふるまう」というのは、ひとことで言えば、「最低の代価で、最高の商品を手に入れること」をめざして行動するということです。
(p.78)
 
 この「患者さま」を児童、生徒(あるいは保護者)に、「病院」を学校に読み替えると、教育崩壊の構造も見えてくるだろう。
 
 しかし、本書の白眉はなんといっても第五講「メディアと『変えないほうがよいもの』」におけるメディア論と、第六講「読者はどこにいるのか」における著作権、読書論ではないだろうか。
 
 現代人は「社会の諸関係はすべて商取引をモデルに構築されている」と考えています。(略)確かに、資本主義経済体制の中に僕たちは生きているわけですから、ほとんどの社会関係がマーケットにおける取引を基礎にして理解されるのは当然といえば当然のことです。けれども、社会制度の中には商取引の比喩では論じることのできないものもあるということは忘れない方がいい。 (p.107)
 
 出版危機についてさまざまな議論を読んできました。そのすべてに共通するのは、読み手に対するレスペクトの欠如です。(略)これは出版だけに限らず、すべての「危機論」の語り口に共通するものです。 (p.127)
 
 著作権というのは単体では財物ではありません。「それから快楽を享受した」と思う人がおり、その人が受け取った快楽に対して「感謝と敬意を表したい」と思ったときにはじめて、それは「権利」としての実定的な価値を持つようになる。著作権というものが自存するわけではない。僕はそういうふうに考えています。けれども、これは圧倒的な少数意見です。 (p.140)
 
 本書の結末部で、内田樹レヴィ=ストロースの「ブリコルール」という概念を持ちだし、次のように結論づける。
 
 人間を人間たらしめている根本的な能力、それは「贈与を受けたと思いなす」力です。この能力はたいせつに、組織的に育まなければならない。僕はそう思います。ことあるごとに「これは私宛ての贈り物だろうか?」と自問し、反対給付義務を覚えるような人間を作り出すこと、それはほとんど「類的な義務」だろうと僕は思います。 (p.205)
 
 なお、本書の巻末は、船が難破したり、前線が崩壊したりしたときに、船長や指揮官が最後に宣言する言葉"Sauve qui peut(ソーブ・キ・プ)"をめぐる感動的な一節で締めくくられている。