市川真人 『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったのか』

 島田雅彦は1983年に『優しいサヨクのための嬉遊曲』でデビューし、その年の芥川賞候補に選ばれたが、「以後わずか四年間=八回のうち、五度(初回を入れれば六度芥川賞の候補になり、そのことごとくに落とされ続け」(p.261)た。
 
 「じつはこの時期、というか島田雅彦が候補にあがった回は、やたらに『受賞作なし』が多いのです。二〇〇九年まで百四十二回の芥川賞のうち受賞作なしは二十八回、割合にして一割九分七厘ですが、島田雅彦が候補になった六回のうち、じつに五回が『受賞作なし』」(p.262)
 
 同時代の小説を普通に楽しんでいる人間にとって、島田雅彦がその当時、どうしてか芥川賞を受賞しないのはいかにも不自然で、文壇(なかでも特に強い権力を持った嫉妬の「神」)は島田のような青二才、若い才能をよほど憎んでいるのだな、と思わせられた。
 
 本書はそのような文壇のゴシップを暴き立てるような本ではない。「走れメロス」と「教科書」、「坊っちゃん」と「近代化する日本の風景」などそれなりに面白いといえば面白いのだが、いかんせん柄谷行人の影響がくどすぎる(「近代の風景」など1980年代に大流行したレトリックである)。著者は遅くとも校正刷りの段階で、同じ出版社から出た小谷野敦『日本文化論のインチキ』など読んでいるはずで、当然、「柄谷『日本近代文学の起源』は魔の書」の一節にも目を通しているはずなのだが…(むしろ文中の小谷野への言及は、一種のエクスキューズだったのか)。
 
 本書では、著者のブック・コメンテーターとしての気概も感じられなくはなかったが、最後まで愚直に読み終えた読者に対して、この題名はいささかあざとすぎるだろう。どうしてもこのタイトルで上梓したいのなら、なぜ村上春樹はデビューから今日に至るまで、これほどまでに「玄人受け(それこそ蓮實重彦柄谷行人など)をしない作家」なのか、など真正面から論じて貰いたい。とはいえ、そんな本はすでに何冊も上梓されてはいるのだが。