動き出した瞬間

アフガン・カルザイ大統領、初めて広島を訪問 (www.asahi.com 2010年6月19日12時55分)
 
 アフガニスタンカルザイ大統領が19日、広島市平和記念公園を訪れた。今回で4度目の来日だが、広島入りは初めて。戦乱からの復興を最大の課題とするカルザイ氏が、原爆による破壊から立ち直った広島を見たいと強く要望したという。
 
 カルザイ氏は復興支援の協議で来日。この日は公園内の原爆死没者慰霊碑に花をささげ、平和記念資料館を見学した。被爆者の松島圭次郎さん(81)の証言を聴き、「いかなる理由があっても核兵器の使用は正当化できない」と記帳。報道陣に「人類は二度とこのような残酷な行為を繰り返してはならない」と述べた。午後には京都市を訪れた。20日は奈良市を訪問する予定。
 

  
 
 カルザイ大統領がヒロシマを訪問したその前日、出張の合間を利用してぼくも広島を訪れた。小学校時代以来、何度となくヒロシマに関する文章を読み、写真も目にしてきたが、現前に聳える原爆ドームは言葉もなく見る者を圧倒する。
 50キログラムのウラン235を詰め込んだ「リトル・ボーイ」。1945年8月6日、午前8時15分。人類が史上はじめて経験した、未曾有の爆風と熱線、そして放射能。その場にいた多くの人びとは一瞬にして命を奪われ、かろうじて即死を免れた人びとも、熱傷により皮膚が焼けただれ炭化した全身を癒すすべもなく眼前の元安川本川に飛び込み、二度と地上に浮かびあがることはなかったという。
 

 
 爆心地から260m。開店前の住友銀行広島支店、その石段に腰掛けていた人を、2,000度以上に達する激烈な熱線が襲いかかる。そして、後に残された「人影」の石。
 ほかにも、8時15分を指したまま永遠に停止した懐中時計や黒こげの弁当箱(それが遺されたこと自体が一つの奇跡と言える)、そして勤労奉仕のため市内に集まっていた女学生や少年、子どもたちが身につけていた焼け焦げた服の遺品など、知識としては知っていても、その実物を目にしたときの衝撃は計り知れない。
 
  
 
 しかし、ヒロシマの人びとを襲った壮絶な苦しみは、午前8時15分で停止したわけではない。黒い雨、放射線症。激烈な胃腸障害、あるいは白血病――。まさにそのグラウンド・ゼロの時点から、いつ果てるともなく肉体と精神を苛み、蝕んでいく。広島・長崎の厄災が人類史上最悪の記憶であり続けている意味は、まさにそこにあったのだ。