清水真木 『これが「教養」だ』

 この奇妙なタイトルのもと、奇妙な文体によって物されたこの一冊は、文部科学省の競争的資金・科学研究費補助金科研費)基盤研究Cに採択された同氏の研究テーマ「尊敬と公共性の哲学」の成果の一部だという。であればこそ、市場に量産されたいわゆる「教養書」の類を期待してはならないだろう。村上春樹の「うなぎ」になぞられた「ソフトな感じの知的な年寄り」体で描かれた奇妙な“知的空間”。
 
 日本が輸入した教養という観念または理念は、ある時期、ある状況のもとで一挙に作り上げられたものではござません。(p.140)
 
 この「ござません」とは何か? 一般に私たち日本人の間で膾炙している「ございません」の、正しい語法か? それともこれは誤植なのか? 本書にはこのような不可思議なフレーズが横溢している。“知的なソフトさ”は本書のごく表層を覆う偽りのヴェールに過ぎず、全体にわたって、ほとんど頭を抱えながら本書を読み進めることになるだろう。
 
 二一世紀初めの今、伝統的な市民社会は、少なくとも日本からは、消えてなくなろうとしております。日本には、市民社会など一度も存在したことはない、と主張する学者もおりますし、ことによると、そのとおりかも存じません。いずれにしましても、姿を現しつつあるのは、何やら鬱陶しい、正体のわからない社会、しばらく前からこの社会に対して与えられてきた「大衆的」という名前では到底表現しつくすことのできない何か気味の悪い社会であります。何が、そして誰が社会の枠組を決めているのか、まったくわからない社会であります。 (p.139)
 
 実際のところ、この「鬱陶しく気味の悪い」何ものかに抗するために書かれたのがこの書物ではないかとさえ思えてくる。教養という輸入の「缶詰」を開けてみせること、古典とは「過去との断絶の宣言」であるなど、ヨーロッパの精神史のミッシングリンクを埋める「アルキメデスの一点」に注がれたその視線は、不気味なまでに鋭い。