三島由紀夫 『暁の寺 豊饒の海(三)』

 三島由紀夫暁の寺』は「頓死」する小説である。「豊饒の海」四部作のうち、唯一、章立てにより2部構成を採っており、その前半と後半とでは、文章、内容の緊密度、構成、ボリュームともに著しい非対称ぶりを示している。そして、全編を貫いて、ついに『春の雪』の松枝清顕や『奔馬』の飯沼勲の如き「ヒーロー」の登場しない、いわば“物語から遠く離れた”「アンチ・ロマン」として、四部作の中でも異彩を放つ問題作となっている。
 
 第1章、冒頭の舞台は昭和16年のバンコック。日米戦の切迫が時局を大きくうねらせ、年末にはあの悲劇的な太平洋戦争が勃発する年である。本多繁邦は五井物産の庇護のもと、47歳の名を遂げた弁護士として大名旅行の途上にある。そして、自分は日本人の生まれ変わりだと言って泣き叫ぶ、満7歳になる「狂気の」月光姫との謁見。
 それは、『奔馬』結末部で深甚とした印象を読者に与える飯沼勲の叫び、
 
ぼくは幻のために生き、幻をめがけて行動し、幻によって罰せられたわけですね。(略)大人になるより、…そうだ、女に生れ変わったらいいかもしれません。女なら、幻など追わんで生きられるでしょう、母さん
 
 という科白を直ちに想起させよう。そして、言うまでもなくこの預言は清顕の『夢日記』にも遡るものである。
 
 ヒンズー教の聖地ベナレス、とりわけマニカルニカ・ガートの描写は、いわば前半部の圧巻というべきもので、死者を焼き尽くす炎は、第2部結末部に直結している。そして、アジャンタの洞窟寺院の体験、西洋の輪廻転生説(オルペウス教)、ミリンダ王のナーガセーナ長老との問答、マヌの法典、「唯識」論――。あたかも第1部は、三島美学と鋭く対峙する輪廻哲学の絢爛な見本帖とでも言うべき観を呈している。そして昭和20年6月、蓼科との思わぬ再開……。
 
 対して、第2章は昭和27年春に時を移し、58歳の本多は財をなした観念的な「俗物」として再び姿を現す。
 徹底したストイックな理知に前半生を生きた本多は、今や「覗く男」として私たちの前に出現する。観念的な第1章と大きな対比を描くように、第2章はまるで大衆小説のような筆致のもと、輪廻の輪からはみ出した登場人物たちが各々滑稽な猿芝居を演じているかのようだ。
 19歳になり、肉体的にも(後には性的にも)成熟したジン・ジャンとの再会。そして、あまりにも突飛な――あたかも作者・三島によって物語の結末部を不意に断ち切られたかのようなカタストロフィー。最後の1行を読み終わるまで、読者はこの大団円を信じることなどおよそ不可能であるに違いない。
 
 逆説的に言えば、この物語は結末を迎えることによってすべての読者を裏切り、取り返しのつかない破綻を迎えてしまった絶望的な小説と言うこともできよう。森川達也は、文庫版の解説に三島の「私はこの第三巻の終結部が嵐のように襲って来たとき、ほとんど信じることができなかった。それが完結することがないかもしれない、という現実のほうへ、私は賭けていたからである。この完結は、狐につままれたような出来事だった」という言葉(『小説とは何か』)を紹介しているが、さらに言うならば、三島の築きあげてきた文学的キャリアが、この一作によって全否定されてもおかしくはない、それほどの不可逆的なまでの失敗作が、その破綻ぶりの天才的な深さにより、却って文学作品が根源的に持つ魔術的リアリズムを我知らず露呈させているという――芸術の臨界を超えた凄みをも呈しているように見えるのだ。
 
 徹底的な観念性と、恐るべき通俗性。これほど晦渋な危険に満ち溢れた魅力を深々と湛える小説は、そう多くないのではないか。