三島由紀夫 『春の雪 豊饒の海(一)』

 高校時代に初めて読んだ時は、ある意味で三島らしい、衒学趣味に溢れた観念的・感傷的な「悲恋小説」の俗悪さが鼻につくとともに、「輪廻転生」という、そのいかにも作為的な物語の虚構性に興が冷め、巻を閉じてしまった。
 けれども、それから30年余りが過ぎ、改めてその絢爛な文章の装飾の薄皮を剥ぐように丹念に辿り直してみると、中心をなすかと思われていた主人公の刹那の物語は後景に退き、「絶対の禁忌」という隠された主題が、結末部に至って怪物のように巨きく顔を擡げていくさまに、鮮烈なカタストロフの経験を味わうことができた。
 そうであればこそ、まさに小説の最終部分にあって、御門跡による法相宗月修寺の根本法典、唯識の開祖世親菩薩の「唯識三十頌」による因果論が展開されねばならなかった「必然」も腑に落ちるだろう。
 
 「又、会うぜ。きっと会う。滝の下で
 
 一人の時代を画した作家の手によって、入念かつ綿密に構想され、練り上げられた本作品群の面白さは、改めて言うまでもなく、細部にこそ息づいている。
 とりわけ、この小説のもう一人の「主人公」本多繁邦が、いわば抽象的な思考を苦手とする清顕になり代わって、いささか稚拙と見えなくもない法哲学論や宗教哲学論を開陳する様は、いかにも「大正」という時代を感じさせる半面、それを「昭和」の作家・三島が見事に描き得た作家としての技巧、したたかさに、却って尽きせぬ興味を持って味わい深く読むことができる。綾倉聡子の醸し出す魅力はもちろん、飯沼(この名前は銘記しておかねばならない)や蓼科、シャム王子など、脇役もそれぞれ戯曲的なまでに個性的だ。
 
 小説の構造としては、中盤に当たる32章(「奔馬」「三つの黒子」「生れかわり」)に至って、伏線がすべて出揃う仕掛けとなっている。それにしても、生身の人間としての「三島事件」の顛末を知る現代の読者にとって、松枝清顕がその魂の奥底で「禁忌としての、絶対の不可能としての、絶対の拒否としての、無双の美しさ」(p.230)を激烈に熱望するさまには、思わず息を呑まずにはいられないだろう。これは、ともすると平板化・単純化されがちな「ミシマ」のイメージを絶えず裏切り続ける「三島作品」なのだ。