丸山真男+加藤周一 『翻訳と日本の近代』

 岩波書店『日本近代思想大系』の一冊、『翻訳の思想』(加藤周一丸山真男編 1991年9月刊行)の編集を念頭において、「加藤周一丸山真男に発した質問に、丸山が応えた内容を整理」(本書あとがきより)したもの。「ペリー艦隊来航のころから日露戦争まで」(p.10)の半世紀の期間に、日本は徹底的な情報獲得に取り組み、結果として「近代化」に成功する。その異文化受容の背景として、丸山が特筆するのが『訳文筌蹄』などに見る荻生徂徠の「翻訳論」であり、「多言語的な世界」観である。
 
 丸山と加藤の対話は、「翻訳文化の到来」「何を、どう、翻訳したか」「『万国公法』をめぐって」「社会・文化に与えた影響」の4部からなっている。「明治維新」とは、「これは大変だ」という「日本人の反応の極点」(加藤)であったわけだが、尊攘論の急先鋒だった薩摩・長州がいち早く転向し、各藩ともすぐに留学生を海外に送り出す。それは、本来の侍が事態を正しく「軍事的脅威と受け取った」(丸山)からであった。
 
 明治に入ると、森有礼は「英語を国語にしろ」という有名な議論を展開する。これに対し、自由民権運動の闘士・馬場辰猪はおそらく世界で初めての体系的な日本語の文法辞典、『Elementary Grammar of the Japanese Language, with, Easy Progressive Exercises』の序文でインドの例を引き合いに出し、「(日本で英語を採用したら)上層階級と下層階級ではまったく言葉が違ってしまうだろう」と述べたという(p.43-45)。
 
 結果的に「翻訳主義」を採用した日本は、西欧の先端文化を貪欲に「翻訳」し取り込んでいく。その勢いは凄まじく、明治16年に矢野文雄が『訳書読法』を刊行した頃には、翻訳洪水の時代を迎えていたという(p.53)。半面、「複数と単数の区別がない」日本語への移植に、大きな問題も発生した。「民権とはいうけれど、人権と参政権とを混同している、と福沢はいうんだ」(p.90)。「何を、どう、翻訳するか」という問題が、近代日本社会の構築に決定的な影響を及ぼしてしまう。丸山は、『万国公法』をめぐっての対話の中で、「ヨーロッパに成立した国際法をグローバルに広げたのが、依然として、現代の世界秩序の問題性なのです」(p.138)とも指摘している。
 
 ほかに、「進化論の影響を受けたがどうかが、中江兆民と福沢の決定的なちがい」(p.154)、「(福沢は)初期から空理空論の大切さを言っています。『虚学』という言葉を使って。そして、その『虚学』の上に、高尚なる学問を築くのだと。(略)空理空論の必要を唱えているところが、西洋文明の怖いところだと言っている」(p.161)など、リラックスした対話の端々からも、丸山の類い稀な知性、批評精神の一端に触れることができる。