忘れるために読むのか

 2010年は「国民読書年」ということで、朝日新聞が元日の別刷「読む スタイル」に、大江健三郎への取材記事を掲載している。
 紙面には、万年筆で書き込みがなされた蔵書(ハーバート・ノーマン『忘れられた思想家――安藤昌益のこと』に寄せた論文?)の見開きと、ノーベル賞作家にしてはいささか慎ましい観がなくもない書斎の写真が見える。わずか1500文字足らずの本文には、エドワード・サイード加藤周一渡辺一夫丸山真男サルトルノースロップ・フライなど、大江ファンならお馴染みの学者、思想家の名前が登場する。
 そしてその記事は、大江が子供の頃、四国の村の公民館に寄贈されたすべての本を1年間かけて読破し、「お母さん、ぼくは公民館の本をぜんぶ読んだ」と得意げに報告したときのエピソードを紹介する。母は、大江少年を公民館に連れていき、そこにある本を適当に取り出しては最初の1ページを読み、あとを続けるように促した。
 「最初の1冊はたまたま覚えていたが、その次、わからない。(略)あなたは何のために本を読むのか、忘れるために読むのかと言われた」
 
 作家は(あるいはこの記事を書いた記者は)、このエピソードを、一種の「ユーモア」として紹介したかったのかもしれない。しかし、読書家にとって、「忘れるために読むのか」という言葉には致命的な衝撃が秘められはいないだろうか?
 
 もちろん、本論の中心は大江のよく知られた読書論、「脈絡が重なりいちばん色濃くなっている場所がぼくの『萃点』です」「これはと思う人の全集をだいたい半年かけて読む。一度読んだ本を読み直すのも大切な読書のスタイルだ」といった部分に向けて開かれているように見える。
 しかし、それにしても――読書家にとって、たとえ自分が数か月かけて集中的に読む作家(それは大江風に言うならばドストエフスキーでありフォークナーであり、あるいはディケンズである)の同じ本、同じページを何度繰り返し読み返したところで、読破した興奮が醒め、時間が経つにつれ、つねにいまさっき読み終わったばかりの本に対し、どこか取り返しのつかない形でその書物を読み損ねてしまった感覚が澱のように溜まってしまう。そして、まさにその危機的な不安と欠乏感こそが、読書の「他に類を見ない」魅力であるように思えるからだ(その意味で、読書を「知の充足のため」と何の衒いもなく語る人間は決定的に信用できないのだ)。
 
 読書体験は一回きりの経験でありながら、決して同じ場所に留まることのない、アクロバティックな体験であるということ。それはつねに移動し、運動する蜃気楼のようなものであるかもしれない。そのとき、読書家はかつてモーリス・ブランショが『文学空間』の冒頭に掲げた有名な一節、「それが真の中心なら、それは、つねに同一でありつつ、ますます中心的な、かくれた、不確実な、否応ないものになりつつ移動するのだ」と語ったような出口のない迷宮に搦め取られ、言葉を失うのである。