村上春樹 『めくらやなぎと眠る女』

 村上春樹の登場人物たちは、自宅にいるときは大抵フィッツジェラルドJ・G・バラード、あるいはチャールズ・ディッケンズ(ディケンズではない。ほかにも村上春樹は、例えば『1Q84』において作曲家ヤナーチェクを「ヤナーチェック」と表記している)の『荒涼館』といった小説を好んで読み、スパゲッティを茹でているか、簡単なツナ・サラダか何かを作っていて、ペリエを飲み、昼下がりにはたっぷりと時間をかけてアイロンがけをしている。
 そして、特別に美人というわけではないが、笑顔のとびきり感じのいい女の子から不意に電話がかかってくると、僕は彼女のかつてのボーイフレンド(そしてその彼はぼくの無二の親友であったりする)が、自宅のガレージの中でN360の排気パイプにゴムホースを繋ぎ、車の中で死んでしまったことを思い出し、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」ことに気づかされる。――
 
 
 外国の読者向けに編まれたという自選短編集『めくらやなぎと眠る女』を読むと、近代日本文学の系譜で、三十代後半から四十半ばにして衝撃的な自殺を遂げた芥川龍之介太宰治三島由紀夫らのいくつかの短編小説などと比べても、とりわけ村上春樹がその作家活動の中で圧倒的に、「死」という即物的な現象や風景を書き込んできたことに改めて驚かされる。

 親戚の病気の見舞いにでかけていた両親が帰宅した時、彼は既に死んでいた。カー・ラジオがつけっぱなしになっていた。ワイパーにはガソリン・スタンドの領収書がはさんであった。(『』)
 
 「夫の父は三年前に、都電に轢かれて亡くなりました」とその女は言った。(『どこであれそれが見つかりそうな場所で』)
 
 遺体がみつかったのは翌週の週末で、私は日曜日の夜に名古屋の実家から寮に戻ってきて、そのことを知らされました。自殺でした。(『品川猿』)

 例えば芥川の『歯車』を例に取ると、義兄の「轢死」が作中重要なエピソードとして登場し、その「死」(「轢死した彼は汽車の為に顔もすつかり肉塊になり、僅かに唯口髭だけ残つてゐたとか云ふことだつた。この話は勿論話自身も薄気味悪いのに違ひなかつた。しかし彼の肖像画はどこも完全に描いてあるものの、口髭だけはなぜかぼんやりしてゐた」)は作者である芥川の極度の不安や狂気と濃密に結びついていくのだが、村上作品でこうした「狂気」が読む者を底深く震撼させることはない。その代わりに、「死」はきれいにクリーニングされた背広や冷えたビールと交換され(『ニューヨーク炭坑の悲劇』)、空っぽになった衣装室の切なさ(『トニー滝谷』)に昇華される。果たして、これほど透明な日常の中に、手触りのない「死」と「死者」を真っ向から好んで書き続ける作家など、ほかに見つけることができるだろうか。
 
 あるいは、『偶然の旅人』のワン・シーンで描かれる次のような台詞――。

 「説明なんかしたくなかったんだ」と彼は遮るように言った。「いちいち説明しなくても、わかってもらいたかったんだと思う。とくに姉さんにはさ」

 ゲイであることをカミング・アウトしたことで決定的な別離を経験することになった姉弟が、十数年の時を経て、ある偶然からようやく再会を果たしたシーンで交わされる(その二人の再開にも、濃密な「死」のイメージは蟠っているが)この会話の中には、多くの人間の共感を呼び覚ます一種の「普遍性」がある。ケンブリッジのチャールズ・スクエアにある「レガッタ・バー」に出演するトミー・フラナガンと神奈川県郊外のアウトレット・ショッピング・モールとの出会いの「ぎこちなさ」も、この小説の魅力を豊かに引き立てている。

 どうして私には息子の姿を目にすることができないのだろう、と彼女は泣きながら思った。どうしてあの二人のろくでもないサーファーにそれが見えて、自分には見えないのだろう? それはどう考えても不公平ではないか? 彼女は遺体安置所に置かれていた息子の遺体を思い浮かべた。(『ハナレイ・ベイ』)

 「死」は「生」と切り離されたところにある暗黒などではなく、「生」とともにある何かであり、われわれは世の中のあらゆる悪意や誤解、憎悪などに深く傷つき、打ちのめされながら、それでも回復への導きを探し求めずにはいられない存在なのだという、これ以上ない“シンプルなメッセージ”を倦くことなく発信し続ける作家、村上春樹。先に挙げた小説は、舞台をハワイから東京の街に変えて、次のように続けられる。

 「忘れっぽいことは問題じゃないんです。忘れることが問題なんです」
 「なんでもお好きに」とサチは言った。
 ずんぐりはポケットから手帳を取り出して、彼女の言ったことを丁寧にメモした。
 「いつもご忠告ありがとうございます。助かります」と彼は言った。
 「うまくいくといいけどね」
 「がんばりますよ」とずんぐりは言った。そして自分のテーブルに戻るために立ち上がり、ちょっと考えてから手を差し出した。「おばさんもがんばってください」(『ハナレイ・ベイ』)

 ――その強靱なまでに倫理的、神話的とも言えるスタイル、「不器用なまでの」技巧の手際よさが、同時代のほかのどんな小説家にも見出すことのできない魅力として、今日まで読者を惹きつけているのではないだろうか。