仲正昌樹 『今こそアーレントを読み直す』

 ハンナ・アーレント(1906-1975): ドイツ出身、アメリカ合衆国の政治哲学者・思想家。ドイツ系ユダヤ人。ナチスによるユダヤ人迫害を逃れるため、フランスを経由してアメリカ合衆国に亡命。全体主義国家の思想史的解明や、現代社会の精神的危機への深い洞察を著した。著作に『全体主義の起源』『人間の条件』『革命について』『精神の生活』などがある。(本書 扉より)
 
 「活動 action」や「拡大された心性 enlarged mentality」といった極めて抽象的な概念を、独自のニュアンスを込めて駆使し、要所要所でアイロニーを効かせているアーレント独特の文体は、政治思想研究の専門家が読んでもかなり「分かりにくい」、と仲正は言う。
 しかし、その著作を通じて「政治思想」のステレオタイプ化、平板化に抵抗を貫いてきたアーレントにとって、その挑発的な文体は、あたかも「分かりやすい顔」をして人類史に登場してくる全体主義思想(世界観的な原理)――ナチスやイタリアのファシズム運動、ソ連のボルシェヴィズムなど――の悪を暴き立てるための戦略に他ならない。
 と同時に、こうした万人受けしそうな“アクチュアルな問題系”に迫りながら、アリストテレスやカントに由来する抽象的な概念を援用し、「ピンと来にくい」議論を展開する「ひねくれた思考」にこそ、アーレント独特の魅力があるのだと仲正は指摘する。
 
 アーレントは、『イェルサレムアイヒマン』で、「平凡な生活を送る市民が平凡であるがゆえに、無思想的に巨大な悪を実行することができる、という困惑させられる自体を淡々と記述」(p.65)する。この「陳腐な人間」像はまさに現代的である。
 第二章「『人間本性』は、本当にすばらしいのか?」は、本書の中でも(ぼくにとって)特に刺激的な部分で、言語哲学分析哲学系と解釈学系)に関する簡潔な説明を施した後、仲正は言語共同体の特権化がしばしばナショナリズム運動に利用されてきたことを指摘する。「自他の言語共同体を分ける線をはっきり引いて、『内部』を均質化・純粋化しようとすれば、『物の見方』の多様性は抑圧され、『複数性』は死滅する」(p.87)
 
 第三章「人間はいかにして『自由』になるか?」では、アーレントの『革命について』をめぐって「自由」や「近代ヒューマニズム思想」の検討が行われる。アーレントは「抑圧や貧困からの『解放』を、『自由』それ自体と混同する近代のヒューマニズムの根源は、フランス革命にある」とし、「市民たちの『政治』への参加を重視した市民革命として、アメリカ革命」を高く評価した(p.125)。「解放=自由 liberty」と「自由 freedom」の違いを哲学的に区別しつつ、追求すべき理想として「共通善」を目指しながら、特定の世界観的原理に陥る危険をいかに回避するか、という思考の道筋はいかにもスリリングで、アクチュアルだ。
 
 第四章「『傍観者』ではダメなのか?」は、未完となったアーレント『精神と生活』第三部を補う実践編とも言うべきものである。
 ソクラテス裁判による死刑判決以来、「哲学」はポリスでの「公的領域」での実践的な活動から身を引き、「観想的生活 bio theoretikos」に専念するようになった。アーレントはこうした「理論=観想」優位の傾向に疑問を抱き、全体主義の脅威に抵抗する戦略として、(政治的)「活動」の意義を再発見する。アーレントの思考は、マルクスの「これまで哲学者は世界をさまざまに解釈してきた。しかし肝心なのは世界を変化させることだ」という運動論と非常に似通っているように見えるが、マルクス主義が人間の類的本質を「労働」に見たのに対し(従ってマルクス主義の実践は搾取からの「解放」であり、フランス革命以来の“解放の政治”である)、アーレントの目指す「人間像」は真逆の位置にある。こうした中で、マルクス主義唯物論古典的自由主義などに有効に対抗するべく、個人の内面性に関わる問題について取り組んだ集大成が『精神と生活』なのだという。
 
 なかでも第二部「意志」で展開されているテーマ「自由という深淵」は刺激的だ。カントは「『自由意志』の存在を証明できないことが分かっているにもかかわらず、道徳を成立せしめるためには、『自由意志』が“ある”かのように振る舞わなくてはならないという論を展開」(p.181)する。“意志の主体”としての「思考する私」の問題は、近年、脳科学の発展により、一般にもその概要が広く普及されつつある。しかし、アーレントはそれを純粋哲学的なアプローチから、政治共同体における「自由」の問題へとまさに移行しようとする途次で、心臓発作により急逝し、論考は途絶えてしまう。
 
 本書では、代わりに「カント政治哲学講義」を手がかりに、「一般的伝達可能性」「共通感覚」「拡大された思考」というアーレントの主要概念を敷衍し、「拡大された心性」がどのようにして「ポリス=政治的共同体」の「構成」に関わっているのかを独自に検証している。「人が独りよがりに陥ることなく、またアイヒマンのような思考停止に陥ることなく、他者の視点から自己の精神の働きをチェックし続けるには、アーレントの意味での『政治』が必要なのである」(p.203-4)。
 
 著者である仲正昌樹は、「新自由主義に起因する格差・貧困が人々の心を荒廃させ、凶悪犯罪を引き起こしている」といった、まさにジャーナリスティックでステレオタイプの「生き生きとした“政治”的言説」に鋭く抵抗する思索者である。仲正を通して見たアーレントの有効性に刺激を得たい現代人には必読の一冊と言えるだろう。