太宰治 『ヴィヨンの妻』

 手許の新潮文庫ヴィヨンの妻』奥付は昭和49年9月20日・39刷とある。三島亡き後、現役作家では「第三の新人」と呼ばれた遠藤周作吉行淳之介安岡章太郎阿川弘之らの世代が台頭し、大江健三郎安部公房がカリスマ的人気を保っていた時代のことだ。
 中学1年だったぼくにとって、その当時の“文学的アイドル”は、(その他大勢の文学少年たちと同様)芥川・太宰・三島だった(ちなみに、今年上半期の芥川賞を受賞した磯崎憲一郎は、少年時代に愛読した作家として北杜夫小島信夫を挙げている)。以来、30年以上経って、生誕100年を機に太宰が再び読まれ、映画化される。太宰が「時代を超えた作家」ではなく、戦中・戦後期というあの独特の風土と時代性に密着して書き続けてきた作家であっただけに、奇妙な面白さを覚えずにはいられない。
 
 本短編集に収められている「親友交歓」「トカトントン」「父」「母」ヴィヨンの妻」「おさん」「家庭の幸福」「桜桃」の8編は昭和21年から23年にかけて文芸誌に発表されたもので、「家庭の幸福」(中央公論、昭和23年8月号)のみ死後発表となっている。無頼派、破滅型作家と目された太宰の真骨頂を示す短編群だが、改めて読み返してみて、その作品の端正さ、静謐さに驚かされる。「親友交歓」に見える剛胆なユーモアもそうだが、諦念のようなものの漲りが認められるものの、その語り口は恐ろしく軽妙で読む者に優しい。表題作「ヴィヨンの妻」に代表される太宰得意の女性一人称体、あるいは文中、椿屋の旦那の長口舌などは古典芸能のそれを思わせる豊かさだ。しかし、ここに描かれているのは、(現在上映中の映画のキャッチコピーで援用されているような)ある夫婦をめぐる「愛」、のような物語でないことはすぐに分かるはずだ。
 
「こわいんだ。こわいんだよ、僕は。こわい! たすけてくれ!」 (『ヴィヨンの妻』)
 
 「家庭の幸福」が作家にもたらす、押し潰されそうなまでの罪悪感と恐怖をテキスト上に無防備にも暴露する一方で、それを佐知(=ヴィヨンの妻)という虚構の人物に仮託しつつ、裏側からユーモアすら交えながら描ききる。その意外なまでの「上品さ」こそが、この作品に力強い命を与えているのではないだろうか。