秘密警察/越境/亡命

ノーベル文学賞、ドイツのヘルタ・ミュラー氏に (www.asahi.com 2009年10月8日20時30分)
 
スウェーデン・アカデミーは8日、09年のノーベル文学賞を、ルーマニア生まれのドイツ人女性作家ヘルタ・ミュラー氏(56)に授与する、と発表した。
 同アカデミーは「韻文の濃密さと散文の率直さをもって疎外された人びとの風景を描いた」と授賞理由を説明した。賞金は1千万クローナ(約1億3千万円)。授賞式は12月10日、ストックホルムである。
 
 ミュラー氏は、53年、ルーマニア西部のバナート地方に生まれた。シュバーベン人と呼ばれるドイツ系少数民族の出身で、ドイツ語が母語。ティミショアラ大学でドイツ文学とルーマニア文学を専攻し、金属工場で技術翻訳者となった。
 しかしチャウシェスク政権による独裁下にあった79年、秘密警察への協力を断ったために職場を追放された。その後、学校の代用教員をしながら創作活動を続け、82年に発表した「澱み」がドイツ国内でも高く評価された。84年には職業に就くことと作品の発表を禁じられ、ルーマニアで活動するのは困難となり、87年に出国。以来、ドイツ国内に居住する。ブレーメン文学奨励賞やヨーロッパ文学賞など、数多くの文学賞を受賞している。
 
 00年に邦訳が出た長編第一作「狙われたキツネ」(92年)では、秘密警察と相互密告制度で抑圧される80年代のルーマニアの民衆の日常を丹念に描いた。とりわけ過酷な同化政策に苦しめられる少数民族に対する筆は温かい。
 著書はほかに長編「ヘルツティーア」(94年)、エッセー集「飢えとシルク」(95年)などがある。
 

 イギリスのブックメーカー、ラドブロークスによると、イスラエルの作家アモス・オズアルジェリアアシア・ジェバール、米国のジョイス・キャロル・オーツの賭け率が高かったということだが、例によって大方の予想を裏切り、09年のノーベル文学賞はドイツのヘルタ・ミュラーに決まった。
 
 翻訳大国・日本でもこれまで同氏の著作はほとんど紹介されておらず、長編第一作の「狙われたキツネ」はすでに絶版状態だ。ただ、23歳の時『調書』で世界的に鮮烈なデビューを飾り、邦訳も多かったル・クレジオが昨年、68歳で同賞を受賞したのに比べると、56歳のヘルタ・ミュラーの受賞は比較的若い受賞と言えるかもしれない(07年度のレッシングは88歳。日本人作家で期待されている村上春樹はすでに60歳を迎えている)。受賞時の年齢がほぼ同世代と言える大江健三郎のデビューは東大在学時の22歳(『奇妙な仕事』)で、国内では早くから作家のキャリアを積み重ねてきた。「秘密警察」「越境」「亡命」など、まさに20世紀の負の歴史を抱え込んだヘルタ・ミュラーの文学的功績は、これから日本語でも続々と紹介されていくことだろう。
 
 ちなみに、1997年7月に刊行された集英社「世界文学大事典」に、同氏の項目はない。