東浩紀+北田暁大 編集 『思想地図 vol.3』

 80年代に集英社から『ラテンアメリカの文学』と題する文学全集が刊行され、大江健三郎中上健次らによる喧伝を通じて、一般の読書人の間にも「ラテンアメリカ文学ブーム」が浸透しつつあった頃(もちろん、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』の受容はさらに20年近く前まで遡るわけだが)、ある文学者が「戦争(紛争)のない国の文学は不毛だ」という主旨の発言を、いくぶん自嘲気味に――あるいは苛立たしげに――発していたことを思い出した。
 
 狭い密室のようなコミュニティーの中で、「死の欲動」や「ゴジラ的破壊願望」が忍び笑いとともに密やかに囁かれる時代の空気に寛容ではありたくない。それはさておいて、東浩紀北田暁大編集のNHKブックス別巻『思想地図 vol.3』を手にとり、巻頭を飾る対談「アーキテクチャと思考の場所」を目にして、僕はそこからいったい何を読み取ればよいのか、眩暈に似た感情を抱かずにはいられない。
 
 権力や社会構造が「不可視的なもの」であるということ。僕らはすでに、それが「自明である」とされる時代に生きている。未来のソーシャル・デザイナーがどのような緻密な計算の上に公共的なアーキテクチャを設計しようとしても、それ自体が権力構造にほかならないことを自覚しつつ、治る見込みのない「前向性記憶障害」状態のままに、楽天的に生きて行かざるを得ない現代人――。これを悲劇と読むか、あるいは喜劇と読めばいいのか。現代思想という「鵺的」なるものが、ゼロ年代に突入して、不意に読み手の精神構造にのみ強く作用する刺激物のような奇妙なメッセージに姿を変えてしまったように思えるのは何故なのだろうか。