村上春樹 『1Q84』

 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、その冒頭に掲げられた「著者より」と題するプロローグにおいて、すでに「第二の物語」の存在が示唆され、「しかるに第一の小説は、すでに十三年も前に起こった出来事であり、これはもう小説というより、主人公の青春のひとコマを描いたものにすぎない」とまで書かれている。
 実際のところ、ドストエフスキーは本書脱稿後、数か月を経た1881年1月28日に、60歳の若さでこの世を去っており、「第二の小説」はついに書かれることはなかった。では、『カラマーゾフの兄弟』は未完の小説か? と問うてみても意味はないだろう。それはふつうの意味で完成された小説であり、少なくとも父フョードル・カラマーゾフを取り巻く兄弟たちの物語は、フョードルの劇的な死と長男ドミートリーに対する結審をもって、取りあえずの完結を見ている。
 もちろん、その後のドミートリー、イワンの物語は可能だが、それは兄弟たちを悲劇的に/重層的に結びつけた「父」の不在の物語として発動するものであり、その意味で第一の物語の円環を凌駕することはない。アリョーシャを軸とする新しい物語の萌芽は、第一の物語の結末部に明らかだが、やはり、それはまた「別の物語」なのだ。
 
 通常の「物語」という意味において、『1Q84』は遂に完結することのない小説であり、遠からず「BOOK 3」が発表されることは間違いないだろう。
 「パンケーキのように」売れた『1Q84』は、作中の『空気さなぎ』のように現実のマスメディアを震撼させ、およそ文学空間とは場違いなワイドショーにまで取り上げられる騒ぎとなった。
 あの悪夢のような地下鉄サリン事件と対峙した、現代を代表する同時代作家ならではのテーマ性、伏線や道具立ての巧妙さなど、読み手の期待を裏切らない作品ではあったが、それでも冒頭から読んでいくうちに、キャラクターの「手触り」に微妙なぶれが感じられる部分は多々あったし、BOOK 2の第13章などは、登場人物の台詞がまさに「つじつま合わせ」の説明に終始していて、かなりの違和感があった。とりわけ、男の主人公と第3の主人公の交わりの描写などは、まさに書かずもがなの感がある。チェーホフを繰り返し何度も引用し、読者に「小説の作法」を意識させながら、あえてその小説の作法の埒外に小説空間を打ち立てようと試みるほど、村上春樹は乱暴な作家ではなかったのではないか?
 
 「母と偽父」の幻想から「父の不在」「不在の父」「父の死」へと繋がる呪われた血脈の“網の目”、『金枝篇』(森の王、魂の危機、神殺し)のメタファー、そしてリトル・ピープル…。2つの月とともに宙に浮かんだ「謎」は、果たして収束するのか。村上春樹の手による、「彼自身のための小説論」として読んでみても面白い作品と言えそうだ。